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【皇族将軍】
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久明親王 正応二年(1289年)
13歳で将軍位につき、32歳で解任されました。
その後はセオリー通り、京都に戻って出家しています。
この方に関しては本当に何も資料がなくてこれ以上のことが書けません。
あまりにも記録がないので、逆に何かとんでもなくマズイことをやってたんじゃないかという気さえしてきます。
古代ローマでも「記録の抹消」は最も重い刑ですし。
守邦親王 延慶元年(1308年)
鎌倉幕府最後の将軍です。
8歳で将軍にさせられ、32歳で幕府が滅びて解任。しかも同じ年の内に鎌倉で亡くなるという「不遇ってレベルじゃねーぞ……」という生涯を送りました。
せめて京都で穏やかな生活をできればよかったですたね。
高貴な家に生まれても幸せになれるとは限らない、という典型的な例……というにも哀れな話です。
上記四人の前にも公家から将軍にさせられた人が二人います。
鎌倉幕府の全将軍
①源頼朝
②源義家
③源実朝
④藤原頼経(よりつね)
⑤藤原頼嗣(よりつぐ)
⑥宗尊親王(むねたか)
⑦惟康親王(これやす)
⑧久明親王(ひさあきら)
⑨守邦親王(もりくに)
源氏の体制はわずか三代で、その後、なんやかんやで六代。
こうしてみると将軍にならなかった(なれなかった)北条家って色々と凄いなぁって実感します。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
宗尊親王/wikipedia