映画やマンガなどに登場する歴史上の人物は、とかく美化されがちで、ときに凄まじいイケメンや美女で描かれたりします。
しかし、中には『この程度の容貌なのか……』と首をひねりたくなる人物も稀におります。
周瑜です。
正史三国志に登場する彼は、ことに及んでクレバーで、それでいて情にも篤い非常に魅力的な人物。
にもかかわらず、現代の作品ではどうにも冴えない。
ジョン・ウー監督の大作映画『レッドクリフ』二部作で、ようやく香港を代表する名優トニー・レオンが演じましたが、残念ながら、少々年齢が行き過ぎていた感はあったものです。
それと身長が足りないような気もしました。
周瑜の没年と比較しても、無理があったものです。
※むろんトニー・レオンはよい役者ですが……
ではなぜ、周瑜は美形になりにくいのか?
一番の原因は、彼が【呉】の武将だからでしょう。
今後、本サイトで『三国志』関連の人物伝を取り上げていく中で、なぜ最初に彼にスポットを当てたのか? その理由もまさしく、ここにあります。
立ち位置が不明瞭で不遇になりがち。その代表格である彼を取り上げることに、意義を感じるのです。
短いながらも煌めくような――周瑜の一生を正史に基づき辿ってみましょう。
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周瑜のいた呉という土地
周瑜の生涯を見る前に、どうしても【呉】という国や地域について説明をしなければなりません。
詳細は主君の【孫一族】に譲るとして、ザッと紹介しておきましょう。
まず、漢民族の暮らす土地とは、どこからどこまでのエリアなのか?
これがなかなか難しい問題です。
曖昧だったラインを引いたのは、始皇帝が端緒と言えましょう。
漢を通してその区別は強くなり、幾たびも匈奴をはじめとする周辺民族である山越族らとの戦いが繰り広げられました。
江東は、なかなか難しい場所なのです。
例えば孫権の容貌について『三国演義』では
「碧眼紫髯」
※青い目に茶色い髭
と記しています。
要は
【呉は漢民族だけの土地ではない】
という認識があるわけです
孫堅が腕っ節でのし上がった呉郡富春県(浙江省富陽県)は、漢民族とそうではない人々がぶつかり合う場所でした。17才の時の海賊討伐で、孫堅は名を挙げているのです。
そんな場所でのしあがった孫堅と息子たち。異国情緒とワイルドな趣が感じられるわけです。
おそらくや『三国演義』はそこをふまえた容貌描写なのでしょう。
では、孫一族を支えた呉の人々は、どんな気風だったのか?
周瑜とも密接に関わってくるところですね。
孫策と周瑜
ワイルドなその土地の兄貴分であった孫堅は「黄巾の乱」で頭角を示し、董卓討伐からの動乱に身を投じます。
妻子は、江東に留まっておりました。
孫堅の長男・孫策は、まだ十代の少年です。
いくら勇武に長けているとはいえ、現在ならば高校生。ここからの孫策と周瑜の出会いは、史実だけで十分ロマンチックですので、大いに盛り上がりますし、かつ重要な点でもあります。
初平元年(190年)、孫堅の留守家族は廬江郡舒県(安徽省舒城県)に移り住みました。
この土地には、周という豪族が住んでいました。
後漢時代には、三公のひとつである大尉を二人輩出しているのですから、堂々たる名門です。
父・周異は洛陽の令をつとめています。
そんな一族に熹平4年(175年)、男児が生まれました。
周瑜、字は公瑾。
彼は成長するにつれ、立派な風貌の持ち主となりました。その周瑜が、この地に越して来た同い年の孫策とたちまち意気投合したのです。
周瑜は、土地に不慣れな孫家を親切にもてなし、足りない生活必需品まで用意。それどころか、道路の南側にある広い屋敷を一家に譲り、住まわせたのです。
そして、一家を率いる呉夫人に拝謁を欠かしません。
これには孫策も、その母・呉夫人も感激します。
この二人は同い年生まれで、周瑜が一ヶ月遅く生まれただけでした。これはもう義兄弟だ――そう盛り上がってもおかしくはありません。
『三国志』の義兄弟といえば、「桃園三兄弟」こと【劉備・関羽・張飛】でしょう。
しかし、それだけではない。江東にも篤い義兄弟がいたのです。
呉と蜀とは、こうした人情や義侠心ベースの政権でした。
そこが魏との違いです。美談ではありますが、王朝の正統性が薄くなる部分もあることを、頭の隅にでも入れておいていただければと思います。
同い年で、まだ十代半ば。
始皇帝父子を助けた呂不韋のように「奇貨居くべし」という打算を働かせることは、周瑜にはムリではないでしょうか。
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そしてこの友情は、翌年には突如途切れることとなります。
孫堅が急死してしまい、その遺骸を引き取るために孫策が江東を離れねばならなくなったのです。
次に会えるのはいつの日か?
その日が来たら、絶対に駆けつけるぞ!
周瑜はそう誓っていたことでしょう。後日、実際、その通りに振る舞うこととなるのです。
君が来てくれたら願いが叶うよ!
時は流れて、興平元年(194年)――。
まだ十代の少年でありながら、孫堅の後継者となった孫策。黄蓋・程普・韓当といった父の宿将を率いているとはいえ、乱世では小僧っ子に過ぎません。
当時、江東の実力者は袁術でした。
口が上手い袁術は「孫郎(孫のご子息)が、私の息子ならいいのにねぇ〜」と言いながらも、舐めきった態度を孫策に取るのです。
孫策はそんな彼に頭を下げて、父の軍団を返還してもらい、配下の武将として戦うしかないのでした。
袁術の本拠地・寿春を出立した孫策軍団は、歴陽にたどり着く頃には五千から六千に拡大していました。
まだ若くとも、孫策には魅力と実力があったのでしょう。
そんな孫策が感激したのが、あの親友が手勢を引き連れ駆けつけて来たことでした。
当時、丹陽太守であった叔父・周尚のもとにいた周瑜は、孫策挙兵を聞いて即座に駆けつけたのです。
「君が来てくれるなんて、これでもう願いがかなったようなものだよ!」
孫策はまさに百人力の思いです。
合流した義兄弟は、江東を進撃し、メキメキと力を発揮するのでした。
全江東がこのコンビに惚れた
この江東進撃では、貴重な人材を得ることもできました。
張昭と張紘です。
『三国演義』では「江東の二張」と称されます。
彼らは荒れきった後漢の混乱を避けて、江東に避難していた知識人でした。
若く勢いのある孫策と周瑜とは異なる、政治的な手腕、経験、知恵のある人材です。こうした人を迎えることによって、行政においても孫策は手腕を発揮する。
あの若い将軍は、敵を容赦なく攻撃するけれども、そのあとは仁政を敷くらしい――。
江東にはそんな噂が広まっていきます。民は孫策を大喜びで迎えるようになってゆくのです。
しかも、その先頭に立つ孫策と周瑜は、カリスマ、スター性、そして美貌抜群というコンビでした。
周瑜のことを親しみを込めて、人々は「周郎」と呼ぶようになります。周家の若君という意味です。
彼は音楽センスも抜群でした。
酒宴で酔っていても、演奏の間違いがあればその奏者を振り向いて見るため、
「曲をミスると、周郎が振り向く」(曲に誤り有り 周郎顧みる)
と流行語になるほど。そんな音楽センスも、彼のカリスマ性をアップさせているのでした。
そんな周瑜のためを思っていたのか、孫策は鼓吹(軍楽隊)を与えました。
恩返しのつもりもあったのか、孫策は住居はじめ、ともかくさまざまなものを周瑜に下賜しています。それですら、孫策からすれば不十分です。
「周瑜は賢くて、ともかく圧倒的だ。よく俺を支えてくれている。その功績と人徳に報いるのに、こんな贈り物くらいじゃ追いつかないよ」
そう語るほどでした。
そんな二人は、建安4年(199年)に妻を娶りました。
皖城を攻めた際に、捕虜の中に名士である橋家の姉妹を見つけたのです。
姉が孫策、妹が周瑜の妻となりました。
孫策は、周瑜に冗談交じりにこう言ったそうです。
「橋家の姉妹は美人だけど、俺らを婿にできたんだから、いいんじゃないかな」
そう本人ですら口にしてしまうコンビでした。
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