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【周瑜】
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カリスマ性も人気もあった
そりゃ女性からは人気だろうけどさ。
そう言いたくなった方もいるでしょうか。周瑜は呉の家臣団からも人気でした。
孫堅の代から使える程普は、家臣団でも最年長です。
剛毅でサッパリとした兄貴分で、周囲から「程公」と呼ばれ慕われる勇将でした。
そんな彼ですら、当初は周瑜に反発しました。
生意気な若造扱いをしていたのです。
ところが周瑜は丁寧にへりくだった態度を示します。
そんな彼を見て、程普は態度を改めます。アンチからファンになったのです。そしてこうですよ。
「周公瑾って、まるでうまい酒みたいだなぁ! つきあっていると、いつのまにか酔っ払っちゃたことにも気づかないほどだよぉ!」
もう完全にファンですね。そういう魅力が、周瑜にはありました。
全江東がこのコンビに惚れた――というのは実は誇張でもなく、史実がそうですから仕方ありません。
味方ではなく、敵からも絶賛されました。
デキる人材が欲しくてたまらない、そんな曹操も実は周瑜をスカウトしています。スカウトマンとして曹操が派遣したのあ蒋幹という人物でした。
平服を着て、旅行中だと偽り、さりげない様子で蒋幹は周瑜に接近しました。『三国演義』での蒋幹のことは、ひとまず横に置きましょう。
しかし、周瑜は見抜いています。
立ったまま、彼を出迎えました。彼にしては若干の塩対応なのです。
「ご足労ですね。わざわざ曹氏のために、江東までいらっしゃるなんてね。スカウトマンになっていたなんて、知りませんでしたよ」
「いやいや、同郷じゃないですか。評判を耳にして、そういえばお元気かなと訪問しただけですって。曹氏のスカウトマンだなんて、そんなの邪推ですよぉ!」
「私程度でも、演奏の正邪を聞き分ける耳くらいはあるものですよ」
周瑜はそう言うと、来客として蒋幹をもてなし、所用が終わるまで三日ほど宿泊先にいるように、そうしたら迎えに行くと告げました。
そして自邸に蒋幹を招き、宴席で彼をもてなしました。
そのあと、孫一族から賜ったさまざまなもの、軍営の視察をさせたのです。
「私は幸せだ……表面的には君臣であっても、まるで肉親のように扱っていただき、これほどまでに気遣ってもらうとは。どんな意見も、聞き届けていただける。幸も不幸も、皆主君と同じ。どんな人物が私を説得しようと、その好意に報いつつも私は断るだろう。ましてや、あなたのようなお若い方の説得に応じるわけにはいかないのですよ」
蒋幹はもう、諦めるしかありませんでした。
ことの次第を曹操に報告し、周瑜が度量と高い精神性を兼ね備えていると告げるのです。
以来、中原でますます周瑜の名声は高まったのでした。
世代交代へ
建安3年(198年)頃、もう一人重要な人物が孫策の配下となりました。
周瑜は一旦叔父のいる寿春に戻ります。
しかし、ここで袁術が周瑜をスカウト。周瑜はその手から逃れ、居巣へと向かいます。
そこで【魯粛】という土地の有力者と意気投合するのです。これも、なんとも豪胆なエピソードがありまして。
「食料を援助していただけませんか」
そう言ってきた周瑜に、こう返したのです。
「どうぞ、どうぞ。この倉ごと持って行ってください」
これは只者ではない……と驚いた周瑜。中国では、こうした気前の良さが大変重視されます。
只者ではない。
義侠心が溢れている。
見る目がある。
そう判断されるのです。
話してみると、頭脳が実にキレる――かなりの人材だとわかりました。かくして、孫策の元にはもう一人、優秀な人材が増えたのです。
天才戦略家・魯粛の名誉を回復します!孔明や周瑜の引き立て役ではないぞ
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その一方で建安4年(199年)、世代交代のような出来事がありました。
因縁ある「伝国の玉璽」を手にし、それもあってか浮かれていた袁術が血を一斗あまり吐いて亡くなったのです。
「袁術がこんなオチかよ……蜂蜜入ったが水飲みたい……」
そう嘆いて亡くなりました。
江東の世代交代はかくして終わったと言えます。
しかし、孫策と周瑜というゴールデンコンビの前途も明るいだけでもありませんでした。
小覇王孫策、無念の死
袁術の残した軍勢を融合し、力をつけた孫策はここで賭けに出ようとします。
当時、中原では曹操と袁紹が激突する【官渡の戦い】真っ最中。献帝のいる許は手薄でした。
孫策は、進軍していた荊州から戻り、手勢を集結させるのです。
そして、この許を突いて中原の制覇を目指しておりました。
かの項羽以来、江東にとって壮大な夢でした。
しかし、これは見果てぬ夢となってしまいます。
丹徒という場所で狩猟を楽しんでいた孫策は、そこで許貢の配下にいた刺客に襲われ、瀕死の重傷を負ってしまうのです。
枕元に集まった弟の孫権、そして重臣を前にして、孫策は遺言を残します。親友であり、義弟のような周瑜が巴丘にいることが心残りでした。
家臣に孫策は、弟のことを頼みます。
「中原は今、混沌の最中。江東の地の利を生かせば、天下を伺うことができる。どうか我が弟を支えてくれ」
それからその弟にこう伝えるのでした。
「そこを乾坤一擲で突くのであれば、俺が上手だ。しかしお前には、人材を見抜いて集めて、忠誠心を尽くさせて、江東を守る力がある。その点ではお前が上手だ……」
享年26という若さで、散ってしまった小覇王こと孫策。この暗殺事件で、孫策が恨みを買うような性格だったと誤解しないでいただければと思います。
許貢は、かつて孫策に敗れた長官のことです。
始皇帝が暗殺に悩まされたように、中国はじめ東アジアでは、滅ぼされた勢力の者が、滅ぼした側をつけねらう暗殺は「義挙」とみなされてきました。
孫策が残酷だったとか。そういうこじつけは歴史を歪ませるものです。
むろん、孫策にも欠点がなかったとは言えません。
単独行動はあまりに不注意でした。
周瑜が巴丘ではなく、彼の側にいれば……と、どうしても、そう思ってしまう。
孫策の死は、歴史的な損失でした。
彼が死の直前に考えていた、江東からの進撃は叶わぬ夢――。
長い中国史を見てみると、統一王朝において江東に都が置かれた時期は短いものです。どうしても中原優位という意識は見られるものです。
中原だけが中国ではない。
そんな思いを、香港、台湾、上海といった場所から、現代でも感じることがあります。
覇王こと項羽。
小覇王こと孫策。
そんな江東のシンボルとして魅力的だと思えるのです。
そのチャレンジ精神は、今も残されているはずです。
後日、あらためて書かせていただきますが、孫氏政権浮上の理由として「伝国の玉璽」があったとされています。
孫堅が玉璽を入手していたのか、はっきりしない点もあります。
状況としては、江東の袁術の手にあったことは確か。
しかし、それさえ手に入れれば誰もがひれ伏すような、そんな過大評価を玉璽に与えることはできないでしょう。
江東という土地。
そしてそこに住む人。
その意思こそが、呉の基盤にあったことは確かなのです。
ともかく周瑜、喫緊の課題は、孫策の弟・孫権を如何にして次なる王へともり立てていくか、でした。
孫権を支えて
孫策の弟・孫権、まだ19才。
兄の死直後は、衝撃のあまり引きこもってしまい、政務どころではありません。
しかも、孫堅以来の家臣たちが、どうしても孫権を小僧扱いしがちです。
そこで周瑜は、率先して孫権に礼を尽くしました。そんな姿を見ていれば、孫権を侮っていた家臣も反省するわけです。
孫権は周瑜のサポートを得ながら、新体制を築こうとします。
ぶっ飛んだ言動をする魯粛に文句たらたらの張昭をなだめ、諸葛瑾(諸葛亮の兄)を家臣として迎え、山越族を抑える。
若いながらも、孫権は才能を発揮します。兄・孫策が見込んだ通り、江東の基礎固めのセンスがあったのでしょう。
しかし、そんな彼に、早速、無理難題が降りかかってきます。
「官渡の戦い」を制覇した曹操は、最高に盛り上がっていました。
後世の人間からすれば、それにはまだまだ早い!と突っ込みたくもなりますが、袁紹を倒したからにはそうなります。
諸葛亮を迎える前の劉備は、ウロウロするフリー武装集団です。孫権も、兄の跡を継いだ小僧に過ぎません。
そんな状況ですから、曹操は、人質として我が子を差し出せと孫権に要求してきたのです。
張昭ら慎重派の意見は、明確。
「曹操は日の出の勢いですからな。おとなしく要求を飲みましょう」
しかし、孫権は納得できません。
こんな時こそ、母とともに周瑜の意見を聞こうと思い立つのです。母と二人で、周瑜の部屋へと向かいました。
すると周瑜は、キッパリと言いました。
「父上と兄上の功績を受け継ぎ、あなたは我らは江東の六郡を支配しております。
将兵は勇猛果敢、向かうところ敵なし。脅迫されたくらいで、従う理由はございません。
人質を送れば、結局は曹操の元につくことになりましょう。
曹操の行動に従い、出兵せねばなりません。指図をいちいち受けてしまいます。
ご自身の勇敢さを信じ、天命をよく見てください」
この言葉に、呉夫人は我が意を得たりと頷きます。
「その通りですとも!策と生まれが一歳違いの周瑜は、私にとっても我が子のようなものと思っています。お前も彼を、兄と思いなさい」
孫権もまさにこれだと賛同。
周瑜には、主君の考えをまとめて言語化する、そんな知能と誠意がありました。
この江東独立的な周瑜の精神は、後にも生きてくることとなります。
ここでちょっとご注意を。いちいち母親を連れて意見を聞く孫権を、マザコンだのなんだの思わないでください。
儒教思想が根底にある中国では、母の意見は大事なことなのです。むしろ親孝行で意見をしっかり聞く、そういうプラス評価だととらえましょう。
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建安8年(203年)。
孫権は父の仇である黄祖の攻略にかかります。
五年の歳月を経て、その首をとったのは周瑜率いる軍でした。
黄祖配下の甘寧を配下に加え、孫権は確固たる政権基盤を作り上げたのです。
その運命は、着々と決戦へと進んでいくのでした。
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