ピエール瀧氏のコカイン摂取や、元KAT-TUN・田口淳之介氏の大麻、沢尻エリカ氏のMDMAなど。
違法薬物の検挙はとどまるところを知りません。
中でも中毒性などの観点から恐ろしいとされているのが覚醒剤であり、チャゲアスの飛鳥氏や元プロ野球選手の清原和博氏、元KAT-TUN・田中聖氏などが世間をお騒がせしたケースは皆さまの記憶にもございましょう。
しかし、歴史というものは、今の価値観が常に過去も同じとは限らず……その摂取が「よし」とされていた時代もありました。
では一体いつどこで始まったのか?
覚醒剤の歴史を振り返ってみましょう。
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ナチスが喘息の薬に注目し兵士に
hubpages.comというサイトによると、次のような歴史があったそうです。
覚醒剤に該当する英語の表現は多々ありますが、一般的にはAmphetamineになりましょう。元々は欝病の治療などに使われていた中枢神経の興奮剤だったのです。
1887年に合成に成功し、製薬業界が注目し出すのは1920年代になってから。
「そんなもん、注目せんでもエエやろうに」とお怒りの読者もおられましょうが、当初は喘息の治療薬の1つとして「ベンゼドリン」という名前を付けられ、大真面目かつ合法的に使われていました。
ところが、です。長期治療を余儀無くされる人は、当然の事ながらベンゼドリンを長きに渡って使う訳で、次第に「あっ、これ気持ち良いかも」というイケない感覚に目覚めてしまいます。
注意力や集中力が高まるし、空腹感も覚えなくなる。さらには痛みまで緩和される。
「エエ事ずくめやん」と早合点してしまったのですね。クスリには副作用があると言うのに…。
1938年、ドイツのベルリンでテミエール・ウェルケ社が「ペルヴィチン」という名前で改良した処方薬を売りに出しました。
察しの良い方はお気づきでしょう。翌年には第二次世界大戦が勃発。
お約束と言うか、トホホと言うか、そうなると当然ながらナチスが目を付けます。
「これ、兵士に使わせよう」
開戦当初の作戦に3500万錠を投入!
ドイツ軍ではテストを重ね、1939年9月のポーランド侵攻で早くも「実戦配備」。
特にパイロットや戦車兵、輜重のトラック運転兵などに使わせていたとの事です。
確かに、こういう部署の兵士は、寝ずに軍務をこなさねばならない場合があるし、上層部にしたら「うってつけじゃないか」と思ったのでしょう。
一方、民間の市場からはペルヴィチンを引き揚げさせます。
製造量の問題でもあったのでしょうか。ともかく、翌年の1940年のフランス侵攻作戦(いわゆる電撃戦)で、国防軍や空軍の兵士に3500万個もの錠剤として配給されていきます。
さっ、さんぜんごひゃくまんって、怖すぎ!
早くも出たぞ 中毒兵士
そんな大量にバラまけば、結果は火を見るより明らかでしょう。
「中毒になる兵士がわんさか?」
その通り、即座に出ていました。
常用していた兵士の間から、モノをガリガリ囓ったり、マナーが悪くなっていったそうです。
そしてお約束の中毒症状を見せ始めます。
アホというか何と言うか、そうなって初めて軍上層部も「これヤバイんでねえの?」となり、方針を180度転換。
1941年春には大っぴらに使う事を禁じます。完全に禁止された訳でなく、やむを得ない場合などにのみ使わせていたようです。
実際、独ソ戦が始まった翌年の1942年1月には
【500名のドイツ軍兵士がソ連赤軍の包囲網を突破する際に軍医の指導の下で使用していた記録(→link)】
が残っています。
「豪雪で零下30度。6時間の行軍後、多くの兵士は倒れる寸前だった。
肉体の疲労は極限に達し、モラルも低下。何人かは雪の中に倒れ、死を迎えるばかりとなっている。
そうした兵士にペルヴィチンを処方した所、30分もしない内にみるみる回復した。
集中力や判断力を取り戻したのだ。
倍の錠剤を処方した兵士の方が注意力を高まっていた事に軍医は注目した」
戦死したり、雪の中で凍死する事を思えば仕方無かったのかなぁ。
一方、英国側も覚醒剤に注目するようになっていました。
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