飛鳥・奈良・平安

日本人の1%しか知らない「古代史22の秘密」 邪馬台国から壬申まで

第三部 東アジアの中の古代日本

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秘密その11 中国、「唐」のことをなぜ「から」と呼ぶのか

なぜ、日本では「唐」のことを「とう」だけではなく「から」と呼ぶのでしょうか?唐とは、遣唐使で有名な中国の大帝国です。唐風、唐辛子、唐人・・・「唐」という単語はこの帝国のことだけを意味せず、その後の「中国」の王朝ことを、さらには広く「外国」を指す言葉となっています。遣唐使を送る奈良・平安時代の日本にとって、海外とはすなわち「唐」のことを意味していたからです。しかし、どういうわけか、「唐」を「から」と呼ばせています。その理由は、飛鳥時代以前の「外国」を意味した言葉が「から」だったからです。

「から」とは漢字で書くと、「加羅」です。朝鮮半島は三国時代と呼ばれていますが、実は半島南部をおさえた加羅は非常に重要で、力のあった国でした。特に日本にとっては弥生時代以来、大陸文化は基本的に加羅を通じてきたのです。

ヨンさまのドラマで有名になった好太王(広開土王)の高句麗は、朝鮮半島を南下しますが、海を渡ってきた日本軍と戦います。あまり知られていませんが、このとき、なぜ日本は海を渡ったのか?それには、この加羅が大きく影響力を発揮しています。近年では、北の諸国から圧迫をうけた加羅がヤマトに援軍をもとめた「傭兵」説が注目されています。

秘密その12 糟糠の妻を裏切り、新しい愛人と浮気した日本

5世紀までの日本にとって、加羅こそが海外の窓口であり、外国の代表でした。加羅にとっても日本はなくてはならない永遠のパートナーでした。しかし、6世紀に入り、越(福井)出身の継体天皇が即位すると、状況は一変。このころ、半島では、南下する百済と加羅が衝突していました。双方共に日本へ味方になるよう要請します。そして、継体天皇は加羅から、より中国化が進んでいた百済へと外交方針を大転換したのです。

これに驚いたのが、加羅であり、さらに驚愕したのが加羅との窓口利権を握っていた北九州の雄、筑紫君磐井でした。そして、古代最大の内戦、磐井の乱が勃発するのです。

考古学や歴史学の最新成果から判明した、この「1年半戦争」の両陣営の戦略と動きは要チェックです。

関連⇒「北斗の拳に脳内変換したらバッチリわかる!聖徳太子以前の日本古代史」

第四部 飛鳥時代

秘密その13 聖徳太子はいなかった、って本当?

最近の教科書を見ると、「聖徳太子」とは書いていません。「厩戸王(聖徳太子)」となっています。10年ほど前にある歴史学者によって「聖徳太子はいなかった」という大胆な説が提示されたからです。実はよく説をみると、それほど大胆ではなく、「聖徳太子のような聖人ではなく単なる皇族」という聖徳太子の「人間宣言」をしたものでした。「いなかった」が一人歩きした感のあるこの説を検証してみますと、、、

冠位十二階、十七条憲法、法隆寺…。聖徳太子の業績をそれぞれ見ていくと、冠位十二階=蘇我馬子との共作、十七条憲法=当時使われていない言葉も混じっていてちょっと変、法隆寺=今は世界遺産だけど当時はこの程度の寺はざらにありました。

というわけで、聖徳太子はいなかった説に軍配をあげそうになりますが、ちょっと待った!

秘密その14に続きます。

関連⇒「「和を以て尊しとなす」の聖徳太子が武闘派で戦争好きだった件」

秘密その14 推古天皇の「推古」の意味を知っていますか?

聖徳太子の時代の人物で、日本史上初めての女性天皇、推古天皇。彼女は自分が「推古天皇」と呼ばれるなんて思ってもいなかったのです。神武天皇、雄略天皇、継体天皇、天智天皇…古代の天皇の名前は実は死後、ずいぶん後になってから付けられた名前なのです。

このことは古代史を学ぶ人には常識といえば常識なはずなのですが、どうしてもこの通り名を使っていまいがちです。きっと楽だからでしょう(笑)

なにしろ、カムヤマトイハレビコ(神武)やらオホハツセワカタケル(雄略)なんて言われると誰が誰だか分からない。(ちなみにこの常識に果敢に挑戦し、あくまで原文通りの名前で古事記を現代語訳した三浦佑之氏の『口語訳古事記』(文春文庫)がベストセラーになったのは記憶に新しいところです)

推古天皇には、推古のほかに二つ、計三つの名前があります。このなかで彼女が生きていたときに知っていた自分の名前は一つだけ「額田部」さんです。

そこで、秘密その10の話に戻りますが、推古天皇が「推古」と生存時に呼ばれていなくても「推古天皇はいなかった」とは誰も言いません。聖徳太子が当時、そう呼ばれていなかったからといって、「聖徳太子(の業績を含めて)はいなかった」と言い切るのは、ちょっとどうなのでしょうね。

第五部 大化の改新~壬申の乱

秘密その15 大化の改新の黒幕はずばりあの人!

日本書紀が古代史を知る上でもっとも重要な資料であることは疑いの余地はありませんが、歴史は常に勝者の手で書かれ、敗者の姿を見つけるのは難しいことです。

645年の大化の改新のクーデターも同様に、ヒーロー中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足のペアが悪の蘇我氏を滅ぼすというストーリーで描かれています。

「それはちょっと都合がいいんじゃないの」と、戦後になって蘇我氏の名誉回復が行われました。現在、出版されている古代史の入門書でもおおむね、「藤原氏のほうが悪い。蘇我氏はえらい」というスタンスで書かれています。

しかし、それはもう古い!

すでに歴史研究は第二段階、つまり「大化の改新2.0」に入っています。

今、浮かび上がる真の黒幕とは?!「事件で一番得をした」次に即位した中大兄皇子の叔父さん、孝徳天皇の可能性が高いのです。

秘密その16 藤原氏は茨城県出身!

それこそ昭和の太平洋戦争がおわるまで、藤原氏は日本の政界に大きな影響を及ぼしてきました。およそ1400年もの間、貴族であり続けたわけですが、このような貴族は世界史的にも稀有な例といえます。

その藤原氏の始祖は鎌足といわれています。しかし、意外なことに、藤原氏は茨城県出身だったという学説がだされ、有力視されています。なぜ茨城出身だった藤原氏は中央に進出できたのでしょうか?

秘密その17 王家の紋章をもつなぞの巨大寺院

最近、新薬師寺の建物跡(金堂)が発掘され、東大寺の大仏殿と同規模だっというびっくりするニュースが飛び込んできました。地中に深く眠る歴史のロマンはつきません。

日本一大きな塔も、地中から突然あらわれました。文献に「百済大寺」として記載される九重塔です。

百済大寺は、蘇我氏に対抗して天皇家がつくったはじめての寺院です。場所も飛鳥ではなく、天皇家のふるさとともいえるイワレにつくられました。天皇家がつくった百済大寺から出土した瓦の文様は、王家の紋章とよばれました。

発掘成果の結果、塔は25階建てビルに匹敵する巨大な建造物であることが判明しました。天皇家の威信がかかっていたにちがいありません。

秘密その18 暗殺された天皇はだれ? なぜ?

歴代天皇のなかで、暗殺された天皇が二人います。

みなさん、だれかわかりますか?

答えは前述しましたが安康天皇と崇峻天皇です。

ちなみに暗殺側の首謀者として容疑がかかるのは、弟の雄略天皇と、妻の兄の蘇我馬子です。

秘密その19 古代の六本木ヒルズをぶち上げた蘇我氏

飛鳥寺は日本最古の仏教寺院といわれています。

蘇我氏は当時の最新技術を持った百済からやってきた人(渡来人)と密接にかかわりがありました。百済人の協力のもと、最新技術を駆使して飛鳥寺を建立しました。技術力の高さは、発掘成果によって証明されました。

本尊に鎮座されたまばゆいばかりの金堂像は、蘇我氏の権威の象徴でもあり、時の推古天皇や厩戸皇子(聖徳太子)に大きな影響を与えたことでしょう。

瓦葺の建物はまったくありませんでした。飛鳥寺が最初です。古代人はこの「見たこともない」巨大な瓦葺の寺院をみて、「蘇我氏恐るべし!」と感じたに違いありません。東京の六本木ヒルズをみあげて感嘆する現代人の感覚に近いかもしれません。

秘密その20 高松塚、キトラ古墳の被葬者はあの人

人物装飾壁画古墳として有名な飛鳥の高松塚古墳に眠るのは、左大臣、従一位までのぼりつめた一流貴族、石上麻呂(いそのかみまろ)の可能性が高いのです。

そして同じ装飾古墳、キトラ古墳の被葬者は、諸説ありますが、右大臣、従二位で没した阿倍御主人(あべのみうし)説が有力です。ちなみに左大臣と右大臣は左大臣がえらいです。

いずれも、「天皇」や「皇族」それに有名人ではないためにあまり浸透していません(涙)

秘密その21 苦労の耐えなかった帝王・天武

壬申の乱を勝ち抜き、王位を簒奪した天武天皇。「天皇」と名乗ったのも、天武がはじまりという説が有力です。古代国家のいしずえである「律令」がつくられたのもこのときのことでした。

そのため、天武天皇こそが絶対的な天皇権力を打ち立て、専制国家を打ち立てたという学説が有力な学説となっています。

しかし、実はそうでもなかったという学説が出されました。天武は豪族たちの強い反抗にあったとするのです。

万葉集に「神」と歌われたとされる天武天皇でしたが、真の帝王の姿はどちらが正しいのでしょうか。

「おまけ 天皇家はどこまでさかのぼれるのか」は次ページ

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