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江戸時代 週刊武春

会津藩校・日新館ってどんなトコ? 授業中にケンカ上等!やっぱり武士の学校です……

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2017年における、日本の高校総数、全国で4,907校(wiki)。

新設の私立あれば、伝統の名門公立もあり、さらには少数選抜の国立など。
各校それぞれ特徴を持つ中、ひときわ異彩を放っているのが「藩校の流れを汲む」学校ではないでしょうか?

「ナントカ館」中学やら、「ナントカ館」高校など。
例えば、山形県立「興譲館」高校は、米沢藩の藩校から流れを汲むと高校の公式サイトにも記載されており、ある種のステータスであることも間違いないと思います。

では、そのルーツとなる藩校って、実際はどんな感じの学校だったか、ご存知でしょうか?

そりゃまぁ、武家直結なんだから、無茶苦茶キビしかったのだろう。
剣道は当然必須で、生意気だとボコられたりして……?

とまぁ、想像が広がりますが、ここでは全国的にも有名な会津藩「日新館」を例にして、江戸時代の校風やカリキュラム等を見てみたいと思います。

 

日本初の民間学校は会津の「稽古堂」

江戸時代の宝暦期(1751〜1764年)。
このころ全国の諸藩は、経済改革の必要性に迫られておりました。

荒々しい戦国の世は遠の昔に終了しており、新しく求められるのは、人口増加や藩の産業を担える優秀な人材。
まず何に手を付けるべきか?
多くの藩で答えが一致しておりました。

「藩士の子弟を鍛えて、優秀な人材を育てようではないか」

人作り革命……なんて言うと、現代の企業だっていつもそんなスローガンが掲げられている気もしますが、当時はカタチばかりでなく実際に動きます。

少し時間を戻しまして。宝暦年間から、さらに遡ること約100年前の寛文4年(1664年)。
保科正之・藩主の時代に会津藩は、儒学者・横田俊益の提案を受け、日本初の民間学校とされる「稽古堂」を開設しました。もとは岡田如黙(にょもく)の私塾だったものを学問所にしたのです。

稽古堂では農工商の区別なく、誰でも学問を学ぶことができました。
さすが江戸時代ナンバーワン(候補)の名君・正之です。
彼は殊のほか学問所の誕生を喜び、援助を惜しみませんでした。

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そこで学べる学問の内容は、和歌、医学、儒学、経学等、様々な分野に及びました。
まさに画期的な教育期間であったのです。

やがて「稽古堂」は改称を経て中・下級藩士の学校に代わり、民間人は閉め出されることになりました。
現在は会津若松市民の生涯学習総合センターが「稽古堂」と呼ばれています(会津若松市)。

そんな経緯を経て、迎えた天明の大飢饉(1782-1788年)。会津藩ではその難を機に、財政難が深刻的な状況へと陥っていきます。

 

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東京ドーム半個分の敷地に「日新館」を設立

藩のピンチに立ち上がったのは、名家老・田中玄宰(げんさい)でした。

彼が取り組んだ改革の一端にあったのが、まさしく教育。

実は会津藩では、庶民のための「稽古堂」と同時期に武士のための学校を作ったことがあったのですが、誰も通わなくなって四年で閉鎖されるなど、はかばかしい環境ではありませんでした。

当時の武士は勉強が嫌いだったんですね。そのせいか風紀も乱れていました。

こうなったら素晴らしい藩校を作って、藩士の子弟を鍛え直す――。
それが玄宰の案でした。

当時、上級武士の子弟向けに、東西で2カ所の学校があり、「講所」と呼ばれておりました。
しかしそこでは手狭な上に、あまり本格的な施設とも言えない。

そこで玄宰は、武家屋敷を移動させ、城の近くに広大な土地を確保して藩校の用地とします。
現在は天文台のあとが残るだけですが(TOP画像の写真)、当時は藩の中心地ですから生徒たちも気合を入れざるを得なかったでしょう。

敷地の広さは、
・東西120間(220メートル)
・南北60間(110メートル)
・7200坪(東京ドームの半分)
という広大なもの。

建設費用は、工事の噂を聞きつけた御用商人・須田新九郎が寄付をして、藩校事業は順調なスタートを切りました。

 

名前の由来は『書経』の「日々新而又日新」から

工事は寛政11年(1799)に始まり、開校までに四年間がかかりました。
名前の由来は『書経』です。
「日々新而又日新」(日に日に新にして又日に新とあり)から取られました。

当時すでに、藩校は全国各地にありました。
それらの先行校に対し、日新館の特色は充実した施設にありました。文だけではなく、武を学ぶための剣道場、弓道場、さらにはプールまで備わっているのです(さらに天文台も)。

プールといっても遊ぶためのものではなく、現代のように水着で泳ぐだけのものではありません。
実戦さながらに衣服、鎧をつけ、馬に乗ったまま泳ぐ訓練をすることもありました。膳を持ち込んで泳ぎながら食事をする、泳ぎながら書道をする人もいたそうです。どんだけ~!

「乃木坂46」の「逃げ水」は日新館で撮影されており、中の様子がわかります。

 

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アタマが良ければ大学、そして江戸にも行ける

日本屈指の設備を整えた日新館。そこで学ぶ藩士子弟は、どのような日常を送っていたのか。

まず朝になると、少年たちは集団登校します。
当時の授業時間は日が出てから、沈むまで。つまり夏は長く、冬は短くなり、常に千人程度が通学していたそうです。

授業の中身は、その名の通り儒学が中心。
いったん入学すると、まずは素読所に入ってみっちりと素読に励みます。
素読所は四級から一級までで、18才で一級修了が平均的でした。中には14才で一級を修了するような優等生もいました。
高嶺秀夫、南摩綱紀、秋月悌次郎など、幕末から明治にかけて名を残した人物たちは、日新館時代から「神童」と称されるほどのデキだったようです。

勉学の習得具合は、身分によって変わりました。

三百から五百取りの長男ならば二級。
五百取り以上の長男は一級修了が義務づけられています。

修了できないと、授業料をおさめて勉学を続けねばなりません。
長男ならば35才、二男以下は21才まで勉強することになります。そうなってしまった人のことを考えると、辛いだろうな、と思ってしまいますね。

素読所で優秀な成績をおさめると、大学へ進めます。
大学でもトップクラスのエリートともなると、江戸の昌平黌に留学できました。
このころから勉強一つで身を起こす術はあったんですね。まぁ、異様に高い壁ですが。

 

ケンカ上等、押忍押忍押忍! ハード過ぎる授業中

さて、肝心の授業内容は、現代の感覚からすると大変厳しいものです。

書道の授業では冬至の日に「一昼夜手習い」という行事がありました。
朝の六時から24時間かけて書を書き続けるという、無茶苦茶ハードなものです。

授業風景は現代の学校とは大きく違います。

素読所では等級ごとに教室を分けない。
等級ごとにバラバラな生徒が、大声で自分の学習箇所を読み上げる。かなりうるさい。
わからないところがあると先生に大声で聞く。やっぱりうるさい。

そして授業中でも喧嘩上等です。
硯を投げて火鉢をひっくり返す大騒ぎになっても、先生も周囲もなかなか止めない。
「武士は戦ってこそ」
というわけです。
喧嘩をしても怒られない代わりに、負けて帰ると親に「武士のくせにだらしない!」と叱られる。

もしも日新館にタイムスリップしたら、
「これ、学級崩壊だよね?」
と、たじろいでしまでしょう。
ドラマ等で藩校のシーンが出ますと、整然&淡々と講義を受けていますが、実際はかなり騒々しかったのです。

 

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数学などは商人のやること 九九もできなかった!?

日新館には必修だけではなく、選択科目もありました。

数学、医学、雅楽(音楽)、天文学等。
ただし理数系は不人気で、数学などは商人のやること、そんなものを習うのは武士の風上にもおけないとされていました。

のちにイェール大学で物理学の学位を取得し、東大総長となった山川健次郎氏は、17才になるまでかけ算九九すらできませんでした。
そこから物理学の学位を取得するのですから、彼には相当な適性があったのでしょう。

「数学を習うことが難しくて、日本史や地理も習えないのは、カリキュラムとしては問題があった」
山川氏はそう回想しています。

山川健次郎/Wikipediaより引用

また、日新館では武道も学びました。
刀、槍、弓、馬は必修です。
しかし砲術は「足軽の武器で卑劣な飛び道具だ」として不人気。この考え方は、戊辰戦争において大きなマイナス要因となりました。

 

「日新館」の教えは今も受け継がれる

多くの人材を輩出した学び舎日新館。
会津戦争では病院として使用され、戦火の中に焼け落ちてしまいました。
現在は観光施設として、会津若松市郊外に再建されています。

そして明治を迎え、多くの藩では藩校の流れを汲む近代的な学校が誕生しました。
たとえば長州藩明倫館の流れを汲む萩中学校は、明治3年(1870)に開校しています。

しかし、戦火に荒れ果て、また朝敵として冷遇された会津の地には、なかなか学校ができませんでした。
明治12年(1879)に中学校ができたものの、すぐ閉校にされてしまいます。

これを嘆いたのが、かつて日新館で学んだ元藩士たち。
山川浩、山川健次郎、高峰秀夫、高木盛之輔(姉・時尾は斉藤一の妻)らは会津の人々に訴えかけ、カンパを募ります。

ところがタイミング悪く明治21年(1888年)、磐梯山が噴火。会津は被災してしまいます。

それでも旧会津藩士たちは根気強く資金を集め、明治23年に(1890年)「市立会津中学校」(現在の福島県立会津高等学校)の開校にこぎつけたのでした。

会津高等学校

また、会津の子供たちは現在でも「あいづっこ宣言」という、会津藩の伝統教育の流れを汲む教えを習うそうです。
伝統は今も現役ですね。

よりよい社会のためには教育は大切です。
それは江戸時代の人々にも同じだったようで、様々な藩校が日本各地にありました。藩校の歴史をたどれば、教育の源流も見えてくるというワケで。

皆様も周囲の名門校などを調べてみると面白い発見があるかもしれませんゾ。

文:小檜山青

【参考】




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會津藩校日新館

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