どうする家康感想あらすじレビュー

どうする家康感想あらすじ

『どうする家康』感想あらすじレビュー第30回「新たなる覇者」

ウサギと猿がタイトルロゴに加わった本作。

今回は初っ端のナレーター説明からして意味がわかりにくい。

前回の放送では【伊賀越え】で命からがら三河へ戻る印象が強かったのに、

明智光秀の首を取ろうと思ったら豊臣秀吉に先を越されちゃった!

ですって……。

確かに伊賀の頭領を説得するため、本多正信が「家康が明智の首を取るかもよ、てへ」みたいな話をしていました。

【伊賀越え】よりも、主眼はそちらに置かれていたのでしょうか。

だいたい、マザーセナのために「信長の首を取る!」とカッコつけていたのが家康です。それが急に「信長の仇討ち」って、整合性に無理があり過ぎませんか。

見ている方は困惑するばかりですが、ドラマの作り手としては大風呂敷を広げたモン勝ちだと思っているかのよう。

他の場面でも「とりあえずビッグなこと言わしとけ!」というスタンスが目に余ります。

しかもナレーターは「新たなる覇者が求められておりました」と語る。

って、ここは王者ではなくて?

今川義元に教えられた「覇道」と「王道」はどうなったのでしょう。

 


どうした覇者と王者

「覇道」とは、力で治めること。

「王道」とは、徳と仁、思いやりで治めること。

本作においては、そんな教えを義元から家康に伝えられたことが放送され、以下の記事でも注目されていますが、

◆【どうする家康】徳川四天王子孫とプロデューサーがドラマを語る シンポジウム記録①(→link

そんな昔のことは忘れたよ、ってことでしょうか。

朱子学と陽明学の区別もついていないようだし、『麒麟がくる』と比較することもおこがましい本作ですが、あえて比較してみます。

『麒麟がくる』では脚本家の池端俊策さんが、長谷川博己さんと語り合うインタビューがあり、問いかける師匠と考えて応じる弟子のような、奥深い儒教問答が繰り広げられていました。

そういう見応えのある問いかけを本作の関連記事で見たことはありません。

本作には覇者もいないし王者もいない。

では何がいるのか?

孫権の水軍を目撃した曹操にでも、例えを聞いてみましょう。

「子を持つなら、孫権がいい。劉表の子供なんて、豚と犬みたいな連中だからな」『十八史略』「赤壁之戦」

って、すみません……これは流石に言い過ぎですね。曹操は口が悪いから。

覇者も王者もいない、せいぜいが「匹夫」ばかりだ。

あたりでしょうか。

 


どうする織田信長の後継者

織田家の後継者は誰になるのか?

というと織田信長の嫡男・織田信忠の遺児である三法師です。

清須会議(清洲会議)は後継者を選ぶ争いではなく、後継者の後見役を擁立した秀吉が一歩リードするという場面でしょう。

それにしても秀吉の衣装がひどい。

清洲会議は歴史上の名場面であり、絵画の題材にもなっています。

こんなもしゃもしゃ頭に妙ちくりんな衣装で三法師を抱えられても、まったく説得力がありません。

三法師を抱える秀吉をフィクションで描くなら、お手本があるでしょ。

月岡芳年『魁題百撰相』「羽柴太閣豊臣秀吉公」でも、「紫野大徳寺焼香之図」でも、いくらでも参照できたはず。

それを知らないか、あえて無視して個性を出そうとしたのか。

奇をてらってばかりで時代劇特有の面白みを消してしまう制作陣には、やはり頭を抱えるしかありません。

 


どうする浅井三姉妹

『江〜姫たちの戦国〜』を下回る浅井三姉妹がいよいよ登場です。

なんでこの子らは、母親が徳川家康に輿入れしたかったなんて話を知っているのか。お市がペラペラ話していたとか?

『麒麟がくる』では、妙に大人びた子どもが出てきました。徳川家康の幼少期である竹千代です。

放送当時はありえないだのなんだの言われていましたが、むしろリアリティのある神童でした。

ああいう賢い子は、大人の思うような振る舞いをしない。ゆえに信長の母・土田御前が「かわいげがない」とわざわざ口にしていました。かわいげのある忖度をせずに、突拍子がなく、生意気なことをするからでしょう。

一方でこの浅井三姉妹は、物語の展開を説明セリフで語っている。いわば大人の考えた駒です。

「私たちのお父様が徳川様だったかもしれないのに」

よく子どもにこんな最低の台詞を言わせられますね。

浅井長政に対しても失礼極まりない。人をなんだと思っているのでしょうか。

 

どうする身分秩序

お市と三姉妹の前に、秀吉と勝家がやってきます。

秀吉が立ったまま失礼な物言いで話しかけるなんてありえない。

「頭が高い!」

という時代劇お決まりの言葉すら知らないのでしょうか。

全く礼儀作法がなっていない時代劇とはこんなにも不愉快なものだったのかと知りました。

秀吉が勝家のことを「権六」呼びもありえない。砕けすぎています。こんな呼び方では、とても織田家の上級家臣に見えません。

秀吉のフレンドリーさと下劣さを混同――このドラマは決定的な勘違いをしているようです。

身分秩序そのものが理解できていないようだ。

 


どうする月代と衣装

本作とは比べものにならない『麒麟がくる』を持ち出すのも辛いのですが、あの作品にはよいところがたくさんありました。

重要でありながら月代を剃らない人物がいます。

長谷川博己さんが演じた光秀と、風間俊介さんが演じた徳川家康です。

光秀は金柑頭ともいうし、本来剃っていてもよいはず。家康にしてもそう。

しかし、私は役者を最も美しく見せるための工夫だと思いました。

あの二人は月代を剃らない方が似合う。反対に染谷将太さんが頭のシルエットが綺麗なので、月代が似合います。

『どうする家康』は、全員まとめて月代になりました。

結果、明らかに似合っていない人がいて、見ているだけで悲しくなってきます。

結髪も役者の頭の形や輪郭を考えずにまとめて処理しているのでしょうね。これは女性もそうで、明らかに似合っていない、不自然なヘアメークが毎回出てきて辛い。

月代にも当然オシャレな剃り方が各人ありましたが、そういう工夫はない。

若者は月代の剃り跡が青々としていて、年配だと髷が細い。そういう個人差に対してなんら配慮がされていないのです。

衣装は相変わらずアイスクリームフレーバーカラーですね。

スイカバーの精霊こと大久保忠世は、今週もスイカバーでした。

スターバックスの新作はスイカのフラペチーノだったっけ。そう思い出してしまいましたね。

大河ドラマを見ていてフラペチーノのことを考えたのは初めての経験です。別にそんなものは求めていなかった。

井伊直政の甲冑にも慣れません。

何をどうすれば、ここまで赤備えを台無しにできるのか。工事現場にある警告標識をなんとなく連想します。

こんな殺虫剤スプレーじみた井伊直政に、武田の兵を預けるなんてあんまりでは……。

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