2022年2月24日にウクライナ侵攻を断行し、アメリカ仲介による停戦交渉も結局は何も進展せず。
プーチン大統領ことウラジーミル・プーチンが激しい非難を浴びていますが、彼の中には「我こそは第二のウラジーミルだ!」という思い上がりがあるのかもしれません。
「ウラジーミル」という名は、ロシアとウクライナの関係において重要な意味を持っています。
キーウ(キエフ)――現在のウクライナ首都には、10世紀から11世紀にかけて偉大な君主・ウラジーミル大公がいました。
彼こそはこの土地にキリスト教を広めた聖人――ウクライナ人のみならず、ロシア人にとっても偉大なる文明をもたらした人物です。
正教会信仰のもと、ウクライナとロシアは兄弟国家として歩んできました。
偉大なるウラジーミル大公は、戦乱を制した前半生ゆえに、英雄そして聖人とされたわけではありません。
信仰にめざめ、神の教えのもと、民を導き慈しんだからこそ、敬愛されています。
1015年7月15日はそんなウラジーミル大公の命日。
本記事でその生涯を振り返ってみましょう。

キエフ大公ウラジーミル1世
※かつてはロシア語読みの「キエフ」と表記しておりましたが、ウクライナ語の「キーウ」に修正しました。わかりやすいよう併記します(→link)。
祖母オリガと父スヴャトスラフ1世
ウラジーミル大公の場合、祖父よりも祖母のほうが有名です。
なぜなら祖母のオリガもまた聖人になっています。
聖人の祖母というと非常に優しい女性のようにも想像しますが、オリガは夫が暗殺されると、手を下した部族を徹底的に滅ぼしたことでも有名です。

聖オリガ/Wikipediaより引用
ただし残虐なだけの女性でもありません。
優れた行政手腕とキリスト教を広める努力で聖人と認定されました。
そんなオリガの息子であるスヴャトスラフ1世(つまりウラジーミル大公の父)は、父親が暗殺された時わずか3才です。
優れた統治者である母が摂政をつとめておりました。
スヴャトスラフ1世は母を敬愛していたものの、どうしても理解できないことがありました。
キリスト教への信仰心です。
「キリスト教の教えは、“右の頬を殴られたら、左の頬を差し出せ”だという。そんな軟弱な教えを守って国を統治できるのか」
当時のキーウ(キエフ)大公国は、周辺諸国と争うまさしく乱世です。
根っからの猛将であるスヴャトスラフ1世にとって、キリスト教の教えなど聞くもおぞましいもの。
オリガは息子の態度や、キーウ(キエフ)にキリスト教の信仰が広まらないことを悩みつつ、969年に世を去りました。
根っからの猛将、戦の申し子であるスヴャトスラフ1世は、各地を征服して回りました。
そして972年、さしもの彼も不覚を取ります。
ドニエプル川で敵対するペチェネグ族の待ち伏せにあい、渡河の途中で殺されてしまったのです。
彼の頭蓋骨は敵の手にわたり、金箔を張り付けて酒の杯にされたそうです。
信長に討たれた後の浅井と朝倉の逸話を思い出しますが、古今東西こうした行為をする人はいたようです。
三人の息子たちによる兄弟喧嘩
40手前で亡くなったスヴャトスラフ1世には、三人の息子がいました。
・長男ヤロポルク
・二男オレーグ
・三男ウラジーミル大公
ウラジーミル大公の母はマルーシャという奴隷でした。
ゆえに一段低く見られておりましたが、三人の息子たちは父の王国を三分割し、統治することになります。
しかし、平和は長続きしません。
972年、二男オレーグが、長男ヤロポルクの家臣を射殺。事故か、故意かはわかりませんが、これは実質的な宣戦布告です。
ヤロポルクとオレーグは兄弟で争い始め、977年、足を滑らせたオレーグは水に転落し、溺死してしまいました。
ウラジーミル大公は身の危険を察知し、スカンジナビアへ逃亡します。
そしてそれから三年後(一年後説も)、軍隊を率いて祖国へ戻るのでした。
強力な指導力のもと、兄の支配地を次々に陥落させて進むウラジーミル大公。猛将だった父譲りの才が開花します。
長男ヤロポルクは、二男オレーグよりはるかに厄介な弟に困り果てました。
そんなとき、ウラジーミル大公から和睦交渉をしたいと申し入れがあったのです。
「アイツも話が通じるなぁ。兄弟で争いはよくないよねー!」
と、交渉に向かったヤロポルクに、お約束の展開が待ち受けています。
はい、暗殺です。
ヒャッハーを楽しむウラジーミル大公
ウラジーミル大公は兄ヤロポルクを始末すると、兄の妻が避難していた修道院へ馬で向かいます。
彼女はギリシャ人の修道女で、スヴャトスラフ1世が遠征中に美貌に目を留め、略奪して息子に与えたという気の毒な女性でした。
悲劇は繰り返されます。
ウラジーミル大公は修道院に乗り込むと、兄嫁を引きずり出して陵辱し、そのまま妻にしてしまいます。
さらにウラジーミル大公は7人もの妻を娶りました。その中には神聖ローマ皇帝オットー1世の孫娘もいました。
それだけではありません。
彼は800人もの寵姫(ちょうき)が侍るハーレムを作ったのです。
領土内の各所に寵姫を置き、いつでもどこでも好みのタイプの女性と楽しむ日々。
ウラジーミル大公は大神殿を建てると、地元で信仰されている様々な神の巨大な像を祭りました。
それだけでは飽き足らず、キリスト教徒の戦士とその幼い息子を神殿に引きずり出すと、人身御供として捧げたのです。
こうしたウラジーミル大公の蛮行の数々を聞き、周辺諸国の人々は震え上がりました。
一方で、彼に宗教を勧めるチャレンジャーもいました。
イスラム教徒はこう語ります。
「割礼をし、酒を飲まず、豚肉を口にしなければ、死後天国で美女たちと楽しむことができます」
ウラジーミル大公は美女とのお楽しみについては興味を示しましたが、飲酒禁止と聞いて、興味を失いました。
「酒を飲めない人生なんて、つまらなすぎるだろ」
ユダヤ教徒には「キリスト教徒にイスラエルを支配されているくせに、布教するとかおまえらなめてんのかよ」と全否定発言をします。
極右インフルエンサー級の問題発言ばかりですね。
嗚呼美しきコンスタンティノープルの教会よ
かくして手の付けようのない恐ろしい男として、名前を知られたウラジーミル大公。
そんな彼も、とある家臣の報告には興味を持ちました。
コンスタンティノープルを偵察してきた者です。
「おう、コンスタンティノープルはどうだった?」
ウラジーミル大公が尋ねると、家臣はうっとりと語り出します。
「コンスタンティノープルの教会は、まるで地上の楽園のような美しさでした。あぁ……この地上に、あのような栄光と美しさに満ちた場所があるなんて……」
思い返せば、ウラジーミルの祖父・イーゴリ1世は、コンスタンティノープル攻略の際、原始的な火炎放射器「ギリシャの火」で撃退されてさんざんな目に遭い、その帰路で暗殺されました。
イーゴリ1世の妻である祖母オリガは、コンスタンティノープルに赴き洗礼を受け、キーウ(キエフ)にキリスト教を根付かせようとしました。
ウラジーミル大公には、祖父母とコンスタンティノープルの因縁が蘇ったことでしょう。
そしてその縁は、やはり終わりではなかったのです。
皇女との縁談と洗礼
ウラジーミル大公のヒャッハーぶりを固唾を呑んで見守ってた周辺諸国。
その強大な力を無視出来なくなりつつありました。
そして988年。
コンスタンティノープルから使者が到着します。
東ローマ皇帝バシレイオス2世からの使者でした。
「ブルガリア人殺し」を意味する“ブルガロクトノス”という異名を持ち、軍神とされるほどの皇帝バシレイオス2世。
彼はバルダス・フォカスはじめ、反抗的な軍事貴族に手を焼いておりました。
「陛下は貴殿が憎きフォカスを滅ぼすためにご助力くだされば、妹君アンナ皇女を嫁がせたい……と仰せです」
これはまさしく、驚天動地の申し出でした。
バシレイオス2世側ではなく、はじめに皇女を妻に欲しいと言い出したのはウラジーミル大公だという説もあります。
いずれにせよバシレイオス2世と皇女アンナは「緋色の生まれ」(ポルフュロゲンネートス)、つまりは宮殿で生まれ育ったという特権階級です。
結婚相手となれるのは身分の高いギリシャ人のみのはずでした。
そんな彼女が、蛮勇で知られ、ハーレムで荒淫にふける異教徒、しかも奴隷の母から生まれた庶出子に嫁がされるのです。
まさに悪夢であり、
・皇女和宮が徳川将軍家に嫁ぐこと
・ハプスブルク家のマリー=テレーズがナポレオンに嫁ぐこと
それに匹敵するような衝撃です。
コンスタンティノープルの貴族や聖職者は大反対し、アンナ本人も涙ながらに兄を罵ります。
「あんな男と結婚するのならば死んだ方がマシだわ。兄上は私を奴隷として売り払うおつもりですか!」
しかし、兄は妹に懇願します。
「お前の結婚に、この国の未来がかかっているのだ」
アンナもやがて運命を受け入れ、ウラジーミル大公の妻となることに同意しました。
ウラジーミル大公は、相手の翻意を警戒したのか、クリミア半島まで軍勢を進め、豊かな町ケルソネソスを支配していました。
ここで花嫁を待ち受けていたウラジーミル大公の前に、アンナが姿を見せたのです。

皇女アンナの到着/photo by Ефошкин Сергей Николаевич wikipediaより引用
婚礼と同時にウラジーミル大公は洗礼。
ケルソネソスの町は、義兄となったバシレイオス2世に差しだします。
怖いぐらいに低姿勢なウラジーミル大公。
それでも、アンナ本人だけでなく周囲の者たちも「あのウラジーミル大公が改心するわけがない」と半ば諦めておりました。
北の大地に訪れたキリスト教文明の夜明け
しかし、ウラジーミル大公は周囲の予想を裏切るのです。
多数のイコン、礼拝用の道具、聖遺物を買い求め、さらには聖職者を雇ってキーウ(キエフ)に連れ帰りました。
そして990年。
キーウ(キエフ)にたどりついたウラジーミル大公は、いきなり大神殿を破壊。
神像は馬の尾にくくりつけ、ドニエプル川に叩き込むと、こう告げました。
「愛しい妻よ、あなたに贈り物を捧げたい。家臣領民をドニエプル川に連れて参れ!」
ウラジーミルi1世は、家臣と全住民をドニエプル川に集め、洗礼を受けさせたのです。
これこそが、彼の言う妻への贈り物でした。
次に待っていたのは、アンナ以外の妻とハーレムの寵姫を追い出すことです。
これはなかなか大変でした。
妻の一人であるログネダは、ウラジーミル大公が滅ぼした部族から略奪した姫です。
「フン、あんたなんか奴隷の子よ!」
かつて高飛車に言ってきたログネダは、気が強い女性。
怒り鎮まることなく「離婚されるくらいなら、あの人を殺すんだから!」と暗殺を決意します。
間一髪で妻の凶刃を避けたウラジーミル大公は激怒し、妻を殺そうとします。
「パパやめて! ママを殺さないで!」
息子であるイジャスラフが間に入り、ギリギリのところでログネダは助かりました。
しかし事件以降、この母子は追放されます。
ここまで徹底した行為を見て、皆は確信しました。
どうやらウラジーミル大公は、本気で改宗するつもりなのだ……。
それだけではありません。
ウラジーミル大公は宮殿で、病人や貧者に食料を配り始め、さらには食料を満載した荷車を町に送り込みました。
「貧しい者、歩けない物乞いはおらんかね〜」
荷車を押す者はそう叫んで、食料を配りました。
さらにさらに、です。
ウラジーミル大公は、なんと死刑を廃止したのです。
前半生の世紀末覇王じみた生き方とは正反対の、聖人そのものの改革。
神殿の跡地には巨大な教会を建設し、学校、修道院、女子修道院も揃えました。
文字のなかったキーウ(キエフ)に、文字も持ち込みました。
道徳、暦、芸術、建築……西側の洗練された文化が、キーウ(キエフ)にもたらされたのです。
それまで飲酒や略奪を楽しみに生きてきた人々は、洗練された文化や信仰心という人生の喜びを見つけました。
周辺国はもはやキーウ(キエフ)を野蛮な国とはみなしませんでした。
キリスト教文明の国家として、敬意が払われるようになったのです。
そして1015年にウラジーミル大公が世を去るまでに、キーウ(キエフ)はキリスト教の根付いた国となりました。
キーウ(キエフ)こそ、ロシアのキリスト教が産声を上げた美しき町なのです。
ウクライナの国民的英雄に
ウラジーミル大公はウクライナの国民的英雄であり、祖母オリガとともに聖人になりました。
今日も彼の肖像画は、コインや紙幣で見ることができます。
2016年には彼の生涯がイケメンで実写映画化されました。
猛将としても名君としても優れたウラジーミル大公にあやかったのか、彼と同じのウラジーミルは、男性名として今でも人気があります。
兄を暗殺。
兄嫁を陵辱。
部族から姫を略奪。
人身御供を捧げる。
そんな殺伐とした前半生から、名君への変貌を遂げたウラジーミル大公。
世界史を見ても、ここまで振り幅の大きい人物もなかなかいないのではないでしょうか。
歴史を調べると、本当に凄い人がいるものだと、思わされる偉人です。
なお、ウラジーミル大公を描いた映画が、2016年ロシアで公開されて、大ヒットとなりました。
日本でも『VIKING / バイキング 誇り高き戦士たち 』(→amazon)というタイトルで、見ることが出来ます。
前半生のヒャッハー時代も描かれていますが、中身はややマイルドにされています。
ウクライナの国民的英雄でありながら、ロシア語で、ロシア人監督が映画にし、ロシア人が楽しむ。ウクライナとロシアの関係がこの映画からも伺えます。
日本でも『三国志』や『水滸伝』を日本語、日本人キャストで映画化することがあります。
国と国の距離感とは何か?
そんなことを考えさせられます。
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【参考文献】
トマス・クローウェル/蔵持不三也/伊藤綺『図説 蛮族の歴史 ~世界史を変えた侵略者たち』(→amazon)











