あるいは『北斗の拳』のサウザーのようにバイクに乗る。秋田犬と戯れる。
そんな姿が何かと話題になっていたプーチン大統領ことウラジーミル・プーチン。
2022年2月24日にウクライナ侵攻を断行し、以来「第二のヒトラーだ」と激しい非難を浴びていますが、彼には「我こそは第二のウラジーミルだ」という思い上がりがあるのかもしれません。
「ウラジーミル」という名は、ロシアとウクライナの関係において重要な意味を持っています。
キーウ(キエフ)――現在のウクライナ首都には、10世紀から11世紀にかけて偉大な君主・ウラジーミル大公がいました。
彼こそはこの土地にキリスト教を広めた聖人。ウクライナ人のみならず、ロシア人にとっても偉大なる文明をもたらした人物です。
正教会信仰のもと、ウクライナとロシアは兄弟国家として歩んできました。
偉大なるウラジーミル大公は、戦乱を制した前半生ゆえに、英雄そして聖人とされたわけではありません。
信仰にめざめ、神の教えのもと、民を導き慈しんだからこそ、敬愛されています。
その生涯を振り返ってみましょう。
※かつてはロシア語読みの「キエフ」と表記しておりましたが、ウクライナ語の「キーウ」に修正しました。わかりやすいよう併記します(→link)。
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祖母オリガと父スヴャトスラフ1世
ウラジーミル大公の場合、祖父よりも祖母のほうが有名です。
なぜなら祖母のオリガもまた聖人になっています。
聖人の祖母というと非常に優しい女性のようにも想像しますが、オリガは夫が暗殺されると、手を下した部族を徹底的に滅ぼしたことでも有名です。
ただし残虐なだけの女性でもありません。
優れた行政手腕とキリスト教を広める努力で聖人と認定されました。
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そんなオリガの息子であるスヴャトスラフ1世(つまりウラジーミル大公の父)は、父親が暗殺された時わずか3才です。
優れた統治者である母が摂政をつとめておりました。
スヴャトスラフ1世は母を敬愛していたものの、どうしても理解できないことがありました。
キリスト教への信仰心です。
「キリスト教の教えは、“右の頬を殴られたら、左の頬を差し出せ”だという。そんな軟弱な教えを守って国を統治できるのか」
当時のキーウ(キエフ)大公国は、周辺諸国と争うまさしく乱世です。
根っからの猛将であるスヴャトスラフ1世にとって、キリスト教の教えなど聞くもおぞましいもの。
オリガは息子の態度や、キーウ(キエフ)にキリスト教の信仰が広まらないことを悩みつつ、969年に世を去りました。
根っからの猛将、戦の申し子であるスヴャトスラフ1世は、各地を征服して回りました。
そして972年、さしもの彼も不覚を取ります。
ドニエプル川で敵対するペチェネグ族の待ち伏せにあい、渡河の途中で殺されてしまったのです。
彼の頭蓋骨は敵の手にわたり、金箔を張り付けて酒の杯にされたそうです。
織田信長と浅井長政の逸話を思い出しますが、古今東西こうした行為をする人はいたようです。
三人の息子たちによる兄弟喧嘩
40手前で亡くなったスヴャトスラフ1世には、三人の息子がいました。
・長男ヤロポルク
・二男オレーグ
・三男ウラジーミル大公
ウラジーミル大公の母はマルーシャという奴隷でした。
ゆえに一段低く見られておりましたが、三人の息子たちは父の王国を三分割し、統治することになります。
しかし、平和は長続きしません。
972年、二男オレーグが、長男ヤロポルクの家臣を射殺。事故か、故意かはわかりませんが、これは実質的な宣戦布告です。
ヤロポルクとオレーグは兄弟で争い始め、977年、足を滑らせたオレーグは水に転落し、溺死してしまいました。
ウラジーミル大公は身の危険を察知し、スカンジナビアへ逃亡します。
そしてそれから三年後(一年後説も)、軍隊を率いて祖国へ戻るのでした。
強力な指導力のもと、兄の支配地を次々に陥落させて進むウラジーミル大公。猛将だった父譲りの才が開花します。
長男ヤロポルクは、二男オレーグよりはるかに厄介な弟に困り果てました。
そんなとき、ウラジーミル大公から和睦交渉をしたいと申し入れがあったのです。
「アイツも話が通じるなぁ。兄弟で争いはよくないよねー!」
と、交渉に向かったヤロポルクに、お約束の展開が待ち受けています。
はい、暗殺です。
ヒャッハーを楽しむウラジーミル大公
ウラジーミル大公は兄ヤロポルクを始末すると、兄の妻が避難していた修道院へ馬で向かいます。
彼女はギリシャ人の修道女で、スヴャトスラフ1世が遠征中に美貌に目を留め、略奪して息子に与えたという気の毒な女性でした。
悲劇は繰り返されます。
ウラジーミル大公は修道院に乗り込むと、兄嫁を引きずり出して陵辱し、そのまま妻にしてしまいます。
さらにウラジーミル大公は7人もの妻を娶りました。その中には神聖ローマ皇帝オットー1世の孫娘もいました。
それだけではありません。
彼は800人もの寵姫(ちょうき)が侍るハーレムを作ったのです。
領土内の各所に寵姫を置き、いつでもどこでも好みのタイプの女性と楽しむ日々。
ウラジーミル大公は大神殿を建てると、地元で信仰されている様々な神の巨大な像を祭りました。
それだけでは飽き足らず、キリスト教徒の戦士とその幼い息子を神殿に引きずり出すと、人身御供として捧げたのです。
こうしたウラジーミル大公の蛮行の数々を聞き、周辺諸国の人々は震え上がりました。
一方で、彼に宗教を勧めるチャレンジャーもいました。
イスラム教徒はこう語ります。
「割礼をし、酒を飲まず、豚肉を口にしなければ、死後天国で美女たちと楽しむことができます」
ウラジーミル大公は美女とのお楽しみについては興味を示しましたが、飲酒禁止と聞いて、興味を失いました。
「酒を飲めない人生なんて、つまらなすぎるだろ」
ユダヤ教徒には「キリスト教徒にイスラエルを支配されているくせに、布教するとかおまえらなめてんのかよ」と全否定発言をします。
トランプ元大統領も真っ青の問題発言ばかりですね。
嗚呼美しきコンスタンティノープルの教会よ
かくして手の付けようのない恐ろしい男として、名前を知られたウラジーミル大公。
そんな彼も、とある家臣の報告には興味を持ちました。
コンスタンティノープルを偵察してきた者です。
「おう、コンスタンティノープルはどうだった?」
ウラジーミル大公が尋ねると、家臣はうっとりと語り出します。
「コンスタンティノープルの教会は、まるで地上の楽園のような美しさでした。あぁ……この地上に、あのような栄光と美しさに満ちた場所があるなんて……」
思い返せば、ウラジーミルの祖父・イーゴリ1世は、コンスタンティノープル攻略の際、原始的な火炎放射器「ギリシャの火」で撃退されてさんざんな目に遭い、その帰路で暗殺されました。
イーゴリ1世の妻である祖母オリガは、コンスタンティノープルに赴き洗礼を受け、キーウ(キエフ)にキリスト教を根付かせようとしました。
ウラジーミル大公には、祖父母とコンスタンティノープルの因縁が蘇ったことでしょう。
そしてその縁は、やはり終わりではなかったのです。
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