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小谷城の戦いを城郭検定2級の城マニアが分析!山城の攻め方&守り方のセオリー

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浅井長政の居城・小谷城は、戦国時代の五大山城の一つに数えられるほど、全国屈指の要害である。

近江北東部の山間に位置し、西には琵琶湖、その脇には北陸地方へ向かう北国街道があり、南には城下町と東の岐阜方面からやってくる街道が交差する――。
まさに要衝という場所である。

それだけに、地域の支配者・浅井家も重要視しており、必然的に城ができた。
そして争いの場所にもなるわけだが、重要拠点なだけに小谷城の規模はハンパではない。

これを信長は如何にして攻略したのか?

浅井長政公自刃の地

今回、「小谷城の戦い」についての解説をお願いしたのは『第一回城郭検定』で2級(当時最上位)を取得し、本サイトで連載中のお城野郎氏である。

同時に注目したのが宮下英樹氏の傑作漫画『センゴク』だ。
本作品は、これまでの戦国モノとは違い、細かな部分でのリアルも追求したことで知られる。

この小谷城の戦いについてもかなり殺伐とした山城の様子が描かれ、戦国ファンを唸らせたことで知られるが、こだわりの強い城マニアをも納得しうるのか。

440年前に思いを馳せながら、その攻略法と城の描写について迫ってみよう。

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小谷城の落城は大嶽城攻略がポイントだった

漫画『センゴク』で、豊臣秀吉軍はまず小谷城の正面玄関「大手門」を突破した。

自軍の櫓を引き倒して押し入った漫画の描写が史実かどうかは不明だ。
が、小谷城攻めの前に秀吉の調略でかなりの数の浅井家臣を味方に引き入れており、織田信長は大嶽城(おおづくじょう)に籠る朝倉軍を蹴散らし、すでに押さえていた。

さらには越前まで追いかけて、朝倉家を滅亡させている。

小谷城跡の曲輪分布図(国土画像情報(カラー空中写真)に加筆)/wikipediaより引用

実は、この大嶽城攻略が大きなポイントだった。

小谷城とその周辺の拠点一群は地理的にはV字型に並んでおり、大嶽城はV字の頂点に位置している。

V字型の城は、Vの頂点を押さえられると弱い傾向がある。
たとえば難攻不落で知られる高天神城もV字型に拠点が並んでいたが、頂点を押さえられて落とされていた。

つまり、小谷城は大嶽城を奪われた時点で、ほぼ詰んでいたとも言えるのだ。

なぜなら朝倉軍の救援(後詰め)も期待できない状況に追い込まれており、城兵の士気も低下する。
ゆえに攻略自体はさほど難しいものではなかったであろう。

後に秀吉が中国地方で、兵糧攻めや水攻めで城をじっくり落としていったのを想像すると、その差がわかりやすいかもしれない。
水攻めをされていた城兵たちは、まだ毛利の救援を期待できた。

よって士気も下がらない。
攻め手の織田家は、毛利の後詰めにも備えなければならない。ゆえにジックリ攻めるしかなかったのだ。

一方、小谷城に籠る浅井長政は、朝倉軍の後詰めが存在していたとき、実は何度も織田軍の攻撃を撃退していた。

その後詰めが消えたのだ。
孤立無援ではほとんど裸にひとしく、その後は約1日、しかも秀吉の手勢だけで攻め落とされている。

いくら堅固な城でも、孤立無援で士気が下がった城は本当に脆い。
まさに「人は石垣 人は城」なのだ。

 

竪堀という防御施設はそう簡単には登れない

ここまでお膳立てがあったから、織田軍(特に秀吉)は、味方にも多大な犠牲が出る攻城戦を強行したのであろう。

士気は相当に高く、勝算は十分にあった。
万が一にも失敗しない自信があり、「小谷城よ、おまえはもう死んでいる」状態である。

そんな背景を踏まえると、まず小谷城の大手門突破も、さほど難しいものではなかっただろう。
浅井軍も大手門で守備するより、小谷城の各曲輪に籠った方が城の防御能力を十分に生かせて、兵力差を補える。

漫画『センゴク』では、大手門を突破した秀吉配下の仙石秀久藤堂高虎、可児才蔵が、その次に竪堀の突破を計っている。

竪堀は、そうやすやすと登れるような防御施設ではない。
上から狙い撃ちされやすいため、通常は、城兵の10倍の兵力でも犠牲者が多く出てしまう。

実際に小田原征伐のとき、秀吉vs北条の【山中城の戦い】では、曲輪を奪う同じような状況で、秀吉側の一柳直末という大名格の将が、城側の鉄砲に当たり戦死している。
そのくらい犠牲がでやすい攻城戦なのだ。

それを、ほぼ無傷で駆け上がったとするならば、ここでも城兵の士気の低下と、事前の調略が行き届いていたと考えるのが妥当であろう。

それにしても『センゴク』に出てくる城は見事としか言い様がない。
多少の誇張はあるにせよ、時代考証が素晴らしく、間違っても白亜の天守閣や総石垣の曲輪なんて描かれない。城マニアからしても、ツッコミの入れようもない。

普通、山城は、草木などない土剥き出しの裸状態だ。
現代では、草深い山に埋もれている印象であるが、小谷城も現役のときは、城内に草木は殆んど生えておらず裸の山だった。

なぜなら草木は、攻城側が隠れるための障害物になってしまうからである。

石垣も主要な部分だけで、他は土を固めて土塁を構築したり堀をタテやヨコに切っているだけ。

これぞ戦国時代の城!
そうした雰囲気も『センゴク』では、非常によく描かれている。

 

枡形虎口が普及していくのは安土城や聚楽第などから…

小谷城の大手門と竪堀を突破した権兵衛たち。
最後は、難関「京極丸」の虎口に向かった。

作中での虎口は枡形虎口(ますがたこぐち)、しかも内枡形の設定になっていた。

「なぜ虎口が城の防御に使われているのか?」
その詳細については後述するとして、当時の小谷城に枡形虎口が設置されていたかどうか、真実のところはわからない。

虎口はたしかに大昔から城や館の防御施設に使われていた。
が、枡形虎口が普及していくのは「安土城」や「聚楽第」など、いわゆる織豊系の城郭になってからだと言われている。

信長・秀吉期できたといわれている防御施設「枡形虎口(外枡形)」/photo by うぃき野郎 wikipediaより引用

ゆえに織豊の敵となった小谷城に、そうした施設があったかどうか。

現在、小谷城趾の京極丸に登城すると、京極丸の絵図に枡形虎口が描かれている。
遺構も確かに確認できるのだが、これが浅井長政が城主の時代に造られたかどうかは実は誰にも分からない。

というのも城郭防衛上の大発明であり鉄壁の防御を誇る枡形虎口を配置するには京極丸の中心から少々外れた「武者溜まり」のような場所に設置されているからだ。

浅井に枡形虎口の発想があるならば本丸や京極丸の正面にこそ配置すべきである。
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