小谷城の戦い

浅井・朝倉家

小谷城の戦い(信長vs長政)で浅井滅亡~難攻不落の山城がなぜ陥落したのか

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大堀切の意外な弱点は秀吉も目をつけていた!?

『センゴク』で恐ろしさたっぷりに描かれた枡形虎口

小谷城にあったかどうかを抜きにして、この防御施設は攻城側には恐ろしく、逆に守備側には必殺の門構えとなる。

もともと城の防御で最も弱いのは、人の出入りができる場所、すなわち「門」だと言われている。

この門を、

・人の出入りは可能なまま

・防御能力を上げたい

そんな贅沢な願望を最終形態にまで高めたのが「枡形虎口」なのである。

門の防御能力を高めるには、できるだけ門を小さくして大軍で押し入られないような工夫が施される。

それが「小口=虎口(こぐち)」という由来になったという説もある。

また、門を突破された後、真っ直ぐ本丸に突撃されても困るし、外から城の内部構造が見られても困る。

それが枡形虎口の場合には、門をくぐったその先の道が、右や左に折れ曲がっていて内部が見えず、さらには曲がった先に城兵を潜ませるなどの措置が取られていた。

弓にせよ、鉄砲にせよ。

飛び道具の武器は、右に振り回すよりも、左に振り回す方が有利な構造となっている。

一度、試しに、弓や鉄砲を構えるフリをしてもらいたい。

自分から見て「左側」のほうが狙いやすくはないか?

逆に、右を向くのがシンドイはずである。

そのため城兵から向かって左に折れる(門から見ると右に折れる)方が良しともされている。

やがて、折れ曲がった方にも第二の門を造るようになり、これが「食い違い虎口」となり一般的に広がっていった。

さらには、正面の門と第二の門をくっつけて、しかも第二の門には90度折り曲げて枡形にしたのが「枡形虎口」である。

文字通り枡形の四角形を形成しているため、ある程度の建設スペースは必要となり、この部分が城の外に出したのが「外枡形」で、城の中に入れたのが「内枡形」。

小谷城に「食い違い虎口」があったのは間違いないが、山城で「内枡形」を造るとしたらかなり小さいものだったと想像できる。

 


「おまえはもう死んでいる」状態だった?

マンガ『センゴク』では、大坂城並みにデカい内枡形の虎口だったが、演出上の問題であろう。

多大な犠牲を出して枡形虎口を突破した秀吉軍は、織田信長を伴って浅井長政が籠る本丸に向かう。

そして総大将同士が小谷城の大堀切に対峙する印象的な場面へと移って行くが、この本丸と京極丸を分ける大堀切があまりにデカい。

いざ攻められると城兵の移動を難しくして、兵の運用が制限されてしまうという弱点になっている。

現実の秀吉は、この大堀切の存在に目を付けて京極丸に兵を集中し、突破したとも言われている。

もしかしたら、大堀切が造られた時点で小谷城は「おまえはもう死んでいる」状態だったのかもしれない。

なお、虎口について、より細かい解説をご覧になりたい方は、以下の記事をご参照いただきたい。


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筆者:R.Fujise(お城野郎!

◆同著者その他の記事は→【お城野郎!

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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