皆さんは「大坂城」と聞いて、どんなイメージを抱かれるでしょう?
反り返った石垣の上に、白とエメラルドと黄金に彩られた天守閣が建つ――上掲画像のように荘厳な姿を頭に描くと同時に、少し間を置いて、豊臣秀吉の顔も浮かんできませんか?
足軽から関白へ。
日本史上でも他に類を見ない出世を果たした秀吉は、これまた前例のない規模で贅沢な大坂城を築きました。
ともすれば「えらいぎょうさんカネかけたのに、大坂の陣で徳川の狸にアレされてもうて……」とため息まじりに語られてしまうかもしれない。
しかし、天下人が精魂込めて築いただけに、結局、同城を物理的に支配した徳川もその影響力から逃れることができてはおりません。
単にデカいだけじゃなく、政治的にも特別な存在と言ってもいいでしょう。
では、そんな大坂城は如何にして建てられたのか?
そもそも秀吉が最初に作ったのか?
本記事で「秀吉の大坂城」を振り返ってみたいと思います。
※現代の大阪城は「阪」、秀吉時代は「坂」で表記いたします
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
元は本願寺だった「太閤はんの城」
大阪の人々は大阪城のことを「太閤はんの城」と親しみを込めて呼んだりします。
秀吉を愛しとる大阪らしい呼び方やね――と微笑ましく思えますが、もしも秀吉本人が今見たら、
「なんじゃこりゃ!」
と目を丸くすることでしょう。
そうです、現在の大阪城は、かつて秀吉が建てた大坂城とはまるで異なるのです。
ロケーションはほぼ同じでも、細かな敷地や城割、天守閣などは創建当時とは別物であり、徳川の時代となると“豊臣のシンボル”としては徹底して潰されました。
そもそも大坂の地に「城(拠点)を作ろう!」と考えたのは秀吉ではありません。
遡ること50年以上も前の天文元年(1532年)、京都の山科本願寺が焼失するのを機に本願寺がこの地へ移転。
水運のアクセスが格段に良い大坂の地を治めると、信徒からの金だけでなく、交易による莫大な権益が得られる地となりました。
永楽銭を旗印に掲げ、商業を重視していた織田信長が、この大坂本願寺を見逃すはずもありません。
元亀元年(1570年)から天正8年(1570年)という長きにわたって続いた両者の争いは、宗教というより”大坂マネーを巡る戦い”と言えました。
顕如を追い払い、大坂を手にした信長。
織田氏の番城として、大坂城が登場します。
そして天正10年(1582年)の【本能寺の変】で信長が斃れると、【賤ヶ岳の戦い】で柴田勝頼を制した秀吉が一気にリードを広げます。
新たな政権構想を組み立てるため、秀吉はそれまで大坂城にいた池田恒興を美濃・大津城に移し、彼自身が大坂城を拠点としたのでした。
西国政権の本拠地を見下ろす壮麗なる城
石を集め、堀を掘り、壮麗な天守を建てる――天正12年(1584年)、この巨大な築城の様子を見上げたフロイスは、その様を記しています。
壮麗にして高い塔。
堀、壁、堡塁がはりめぐらせてある。
鉄が打ち付けられた門。
中には財宝、武器弾薬、兵糧が蓄えられている。
建築開始からわずか一年ほどで、大坂城は堂々たる姿を見せていたのです。
そしてその姿は、現在、私たちが見上げる白亜の天守とはまるで異なります。
織田信長の安土城を意識していた秀吉は、黒い天守を作りました。
要所要所に金箔瓦がきらめき、外観5層、内部8階。
その壮麗さを目にしたものは、秀吉こそまさしく天下人だと驚いたことでしょう。
防衛施設としてだけでなく、天下に睨みを利かせる大坂城はかくして出来上がっていったのです。
※続きは【次のページへ】をclick!