真田丸レビュー

第1次上田合戦とは? 真田昌幸が勝利を掴むために仕掛けた「油断と地形、砥石城」

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前回の上田合戦(第一次上田合戦)では、真田家が上田と沼田を領有し続けるための戦いでした。
大前提としてお家の存続というのはありますが、これは中世からの永遠のテーマでありますので、当然のこととして省きます。

しかし今回の目的は西軍の勝利に貢献し、真田の領土を保全することです。

仮に上田城を攻略されても、西軍の石田三成に合流し、生き残りさえすれば西軍勝利の際に再び領土は戻ってきます。
昌幸は敵地の中で孤立した地にありながら、伏見城の徳川家臣・鳥居元忠(東軍)のように、城を枕に討ち死にするような悲壮感は微塵もないことは確かです。

ということで、西軍の勝利のために、昌幸と信繁は西軍主力連合軍に合流するよりも地の利を生かして、東軍の西進を阻む遊撃部隊としての役割に徹します。

 

もともと東山堂は「時間が読みやすい」街道であった

既に岐阜城の織田秀信(信長の孫。清洲会議時の三法師)が東軍と衝突し、岐阜城がわずか1日で落城。美濃を支配下に置くことで、家康は進軍に東海道と東山道の両方が使えますので、大軍の速やかな集合が可能となります。

家康の江戸城出発と同時に秀忠も徳川家の主力を率いて東山道から美濃へ目指します。

最近では徳川秀忠は関ヶ原に遅参したのではなく、そもそもの目的が東山道の制圧だったと云われていますが、この真偽は分かりません。
途中で、命令が変更になり、美濃に集結することになったものの、伝令が利根川の氾濫で遅れ、伝わったときには既に遅しで、遅参したのは真田昌幸だけが原因ではないといわれています。これも真偽は分かりませんが、今年の真田丸フィーバーに完全に身を任せれば、「まあ負け惜しみですな」と真田昌幸目線についなってしまいますね。

途中で予定変更はあったにせよ、少なくとも美濃で家康の東海道組と合流予定だったことは、家康がギリギリまで東山道組を待っていたことからも間違いありません。

通常、東海道より東山道の方が旅程が計算できると云われています。江戸時代を通じてもそうですが、安倍川や大井川など、大河をいくつも横断しなければならない東海道は天候に左右されやすく、予定通りの行程で行くことが難しいといわれています。

一方、中山道(東山道の後継)は東海道より距離はありますが、天候にほとんど左右されないので、ほぼ予定通りの行程で行けるといわれています。
ある程度、サボりつつ来なければ日数が不確定な東海道よりも早く美濃に着いてしまうことを考慮すれば、日数の余裕から秀忠の上田城攻めが行われたのではないでしょうか。

 

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一次合戦から15年が過ぎ、弱点の東側も強化されている

徳川の諸将の中には本多正信のように「家臣は15分前行動!」という、上田城はほっといて美濃へ急ぐべきといといった意見と、土井利勝のように「いやいや、上様に手土産忘れるな!」という積極的にせん滅すべしという意見に分かれたと云われます。

いつの時代も、ごもっともな意見より勇ましい意見の方が通るようで上田城攻めが決まります。
当初から上田城攻略は家康の命令だったとも云われてもますが、いずれにせよ秀忠が最初に投降勧告を昌幸に出しているので、最初から力攻めの意思はありませんでした。意見の割れた家臣団に対して、この辺の秀忠の調整感覚はさすがですね。

そんな事情があるとは知らない真田昌幸にとっても、ここで徳川方をクギ付けにすることによって、畿内で東軍の集結を妨害できると考え、徳川方の挑戦を単独で引き受けます。

この頃の上田城は、前回の戦いから15年が経ち、城だけでなく市街もかなり整備されました。前回は、作戦だったとはいえ本丸まで侵入をゆるした東側の高台に対して三の丸を設けて城を拡張し、さらに外側にも市街地を広げ縦深を保ち、沼と沼をつなげる水路を掘り、敵が一直線に城に殺到できないような町割りを施します。街の外側には砦に応用可能な寺も集めています。
現在でも上田の寺は東から北側に多く、これは城の鬼門に寺社を集めたというよりも、上田城の外郭の防衛拠点として集められたものでしょう。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20160320-11

 

弟・信繁の守る砥石城を攻めるのは兄の信幸

新たに整備された上田城に対し、徳川方は小諸城を本陣に構え、第一次の戦い同様に南東から約10倍の兵力で上田城に迫ります。

昌幸は降伏勧告に応じる構えを見せながら、3日後に「実は戦の準備をしてましたわ!アッハー」と挑発。これを受けて徳川方は総攻撃に入りますが、今回はさすがに学習したのでしょう。徳川方は、上田城の前に砥石城を攻めて占拠します。

信玄も落とせなかった要害堅固と言っていた割に、やけにアッサリ落とされてんじゃねーか!?

と一瞬疑問に思われるかもしれませんが、この時、砥石城を攻めたのは東軍にいた昌幸の長男・信幸で、防御側はその弟・真田幸村こと信繁でした。
なんだかんだ言って東軍では居心地の悪い兄信幸。彼に功を上げさせるため弟・信繁が退いたという涙腺崩壊の場面ではありますが、戦国はリアリズムの世界でもあります。

やはり兵力差が10倍ともなると、守備側も兵を二手に割るより上田城に集中させるべきなのです。徳川方が上田城より先に砥石城の攻撃に出た時点で、真田方の砥石城放棄は既定路線だったと考えます。また、昌幸の必勝戦術は戦略要地を敵に明け渡して油断をさせて誘い込むことです。前回は神川でしたが、今回は砥石城で相手を油断させました。

 

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やっぱり油断してしまう徳川がバカではなく、昌幸が上手なのね

実際、本丸のキワまで簡単にたどり着いた徳川方は「真田、たやすい」と油断しまくります。

一方、真田方は機を見てすばやく動きます。近寄って油断しきっていた徳川方に至近距離から一斉に鉄砲を浴びせ、信繁が遊撃部隊として敵の側背を突き、大軍勢を大混乱に陥れます。

徳川は立て直す余裕もないまま、信繁の夜討ちや奇襲などに散々悩まされ、さらには神川の上流に施していたダムが真田方によって決壊されると、溺死者を多数だしてしまう有り様に陥り、ついには小諸城までほうほうの体で撤退することになりました。

お城野郎さん2016027-12

砥石城から上田城方面の眺め。信幸はどいういう思いで見ていたのでしょうか

今回の真田昌幸の勝因も、前回同様に徳川方の油断と、自身が地形を熟知していたことでした。

砥石城は放棄してしまったので、勝因には挙げられませんが、徳川方の油断を誘う一因にはなっていたでしょう。

また、検証は必要ですが、なだらかな坂道を下りながらの攻撃は、どんなに慎重な軍でも油断の罠に陥ってしまうのでしょうか。徳川方の時間稼ぎで小競り合いをする程度だった合戦が、勝てると思った油断から大損害を被ってしまいました。
百戦錬磨の徳川家が分かっていてもやってしまうからには上田の台地が心理的に油断を誘う地形だと思わずには入られません。

そして今回も上田の地形を熟知している真田昌幸にしてやられました。
染谷台と呼ばれる上田の台地に本陣を構えた徳川秀忠に対して、遊撃部隊の真田信繁が奇襲を成功させましたが、これもおそらく、川筋の谷を進んだと思われます。砥石城を押さえていれば十分見えるので、夜陰で真田信幸が見逃したか、信幸も知らない道があったのかもしれません。

以上が上田の戦いから分かる真田昌幸の上田城の全貌です。

2つの街道と渡しを押さえ、河岸段丘の自然地形を生かして、要衝の地を天然の要害で囲い込んだ崖城。

縄張りは、戦況から予想するに、城そのものが甲州流築城術の馬出状のものでした。また、急きょ戦闘正面を変えなければならず、坂下という不利な地形を強みにするために、城の構えを東に広く取り、城下町も含めて防衛、さらに昔から堅城として名高い砥石城との連携で防衛力を強化しています。

上田城を攻撃する者は、神川を越え、下り坂で勢いがついて気が緩んだ時点で、もう死んだも同然なのです。

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 

※編集部より




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