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吉本興業の始まりとなった第二文芸館/wikipediaより引用

わろてんか

わろてんか武井風太(濱田岳)のモデル・林正之助の生涯92年をスッキリ解説!

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日本のお笑い業界に君臨する「吉本興業」は、明治時代に生まれました。

会社を起こしたのは、吉本吉兵衛と吉本せいの夫妻。
朝ドラ『わろてんか』のモデルとして知られ、夫・吉兵衛を松坂桃李さん、妻・せいを葵わかなさんが演じられております。

ドラマでは吉兵衛が同社をかなり大きくするかのように描かれておりましたが、実は彼も、彼らの息子・穎右も若くして亡くなっており、その後、同社を大きくしたのはもっぱら女興行師・吉本せいの腕でありました。

いや、もっと正確に申し上げるなら、もう一人絶対に忘れてならない方がおられます。

林正之助――。

吉本せいの実弟にして、平成まで活躍した偉大な興行師。
彼がダウンタウンを世に輩出した、とまでは言いませんが、その土壌を作ったのは間違いなく、戦前戦後の厳しい時代をくぐり抜けて現在のカタチにしてきました。

本稿では、そんな林正之助の生涯をおさらいしてみたいと思います。

 

劇中キャラ、史実では誰か?対応表

朝ドラ『わろてんか』では武井風太(濱田岳さん)が、林正之助をモデルにしていると言われています。
ただし、劇中ではヒロイン・てんの実弟ではなく、弟のような存在として育った実家奉公人に改変されていました。

まずは『わろてんか』視聴者さんも読まれることを前提として、劇中キャラと実在人物の関係をおさらいしてみましょう。

北村てん:吉本せい
北村藤吉:吉本吉兵衛
北村隼也:吉本穎右または林弘高
北村啄子:吉本ユキ
武井風太:林正之助
舶来屋キース:横山エンタツ
万丈目吉蔵:秋田實
潮アサリ:花菱アチャコ
秦野リリコ:ミス・ワカナ
川上四郎:玉松一郎
伊能栞:小林一三
亀井庄助:長田為三郎
月の井団吾・団真:桂春団治
寺ギン:岡田政太郎

実は以前、
・吉本せい
・吉本興業の歴史
というテーマで記事を公開させていただきました。
重なる部分も多いですが、今回は正之助のエピソードを中心としてマトメさせていただきます。

よろしければ、上記の記事も合わせてご覧ください。

 

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威勢のいい若き総監督

大正6年(1917年)。
小さな寄席「第二文藝館」からスタートを切った吉本夫妻の寄席興行は、次第に規模が大きくなりはじめました。
この年には一気に4軒も寄席を手に入れ、いよいよ「吉本興業部」を立ち上げます。

そうなると、どうしても不足するのが人手。
せいは丁稚奉公をしている弟の一人・正之助を呼んで、商売を手伝わせることにしました。

このとき、まだまだ20才手前の正之助は、せいに顔立ちがよく似た、威勢のいい青年でした。

吉本の花模様を染め抜いた法被を着て、寄席を自転車で回っては客の入りを確認する毎日。
とはいえ、まだ若く商売のイロハも知らない正之助は、肩書きこそ「総監督」ではありましたが、プロモーターとしてはまだまだ駆け出しでした。

正之助がプロモーターとして芽を出したのは、「安来節」の仕掛け人となってからのことです。

落語だけではない新たな娯楽として、若い娘が足を出して踊る「安来節」を売り出したのです。
現ナマをドサッと積み上げスカウトしてくる豪快なやり方で、新しい売り物を発掘したのでした。

関東大震災の際は、姉・せいの頼みで被災地支援に向かっています。
神戸から船に毛布200枚を積み、荒れ果てた東京に入ったのです。

このとき世話になった東京芸人の間に、「吉本」の名が浸透しました。

 

ハンチングを被った「ライオン」

大正13年(1924年)、吉本吉兵衛が急死しました。
正之助の役割はますます重たくなります。

大正モダンの時代を経て、正之助は法被姿の若者の姿から、迫力に満ちた男に変貌していました。

お気に入りのファッションは、ハンチングにニッカボッカ。
髪型は刈り上げや、ポマードで固めたスタイルで手にはステッキを持っていました。

このステッキは、後年ダウンタンの浜田雅功さんが、こうネタにしました。

「会長はファッションでステッキ持ってはるみたいに見えるけど、あれは言うこと聞かへん芸人や、おもろいない芸人をしばくためにもってはんねん」

正之助はステッキで人を殴ることはありませんでしたが、ステッキを振り回す姿はなかなか凄味があったとか。
浜田さんに怒るどころか、あとでこう言いました。

「ステッキはそんなことにはつこてへんと言うとけ」

独特の迫力のある風貌と怒鳴り声から、正之助は「ライオン」、「重爆撃機」と呼ばれました。
時と場合によっては金を積み上げ、女も抱かせる、そんな辣腕プロモーターでもあったのです(これは正之助一人の問題ではなく、かつての芸能界は所謂アウトローとの「黒い交際」があったとされます)。

姉のせいが穏やかで心優しい菩薩の面を引き受けたのであれば、正之助はびしっと引き締める憎まれ役の面を引き受けたのでした。

 

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笑いの新時代と戦争

正之助は落語をいまいち理解しておりませんでした。
一方の落語家たちも、正之助を「笑いのわからん若造や」と見くびっておりました。

当然ながら、両者の関係が良いハズもなく、しかし、それが同社にとって新たな金脈を発掘することに繋がります。

正之助は落語にかわる娯楽を探し求めていました。
そもそも落語の人気が落ち目ということもありました。なんせ江戸時代以来の風俗を背景にしていて、和服で演じられるのですから、街にジャズが流れ、チャールストンが流行している時代では古くさく映っても仕方のないことです。

大正が去りゆく頃。
落語にかわる芸を探すことは急務でありました。

そこで正之助が目を付けたのが、伝統芸をステージで見るものにした「万歳」でした。
万歳が盛んであった神戸で見かけた正之助は「コレや!」とピンと来たわけです。

ある意味、高尚な落語の笑いはわからない。
だからこそ、当時の庶民が求める感覚がわかる。

そんな正之助の予感で始まった万歳は大ヒット。
しかし、万歳もやっぱり和服に歌舞伎口調という殻から抜け出せず、短命に終わりそうでした。

もちろんそこで終わっては今の吉本はありません。
彼は、新たな万歳を産みだそうとしました。

万歳の売れっ子でありながら相方が引き抜かれて困っていた花菱アチャコ。
アメリカ巡業経験経験があり、当時はくすぶっていた横山エンタツ。
彼らにコンビを組ませたのです。

このエンタツ・アチャコのコンビは大人気となり、万歳改め「漫才」が誕生したのでした。

 

ラジオとは切っても切れずの漫才誕生

漫才誕生は、ラジオの普及と切って離せない関係にあります。

当時、瞬く間に大流行となったラジオ。
吉本にも出演依頼が来ますが、せいと正之助の姉弟は断っていました。
こんなものが流行ったら、彼らの寄席に客が来なくなる。

いずれ避けられないメディアであることは感じていたでしょう。ただ、今はそのときではない。
要は、時期尚早と判断したのです。

しかし、売れっ子落語家の桂春団治が無断出演してしまいます。
ドラマでは波岡一喜さん演じる落語の天才・月の井団吾です。

正之助は激怒しながら、結局は折れました。
ラジオ放送で寄席にも客がやってきて、宣伝効果になると踏んだからです。
それでも渋る姉のせいを説得したのが、正之助でした。

これを機に、正之助はお笑いのメディアミックス展開に乗り出しました。

ラジオ、映画、大衆娯楽雑誌『ヨシモト』創刊、アメリカからマーカス・ショーの招聘。
エネルギッシュな正之助は、吉本の飛躍に欠かせない人物でした。

流行るとなれば、節操がないと思われるほど乗っかる、それが正之助でした。

そして、吉本のとどまるところを知らない快進撃が始まり……と思ったその矢先に、時局は激動の時代へ向かいました。

戦争です。
中国戦線からアジア圏へと広がった戦場は太平洋にまで拡大し、吉本の芸人も「わらわし隊」として戦地に向かうようになります。

日本の敗色濃厚になった最中、大阪空襲によって、寄席も通天閣も焼け落ちました。
当時の通天閣は、吉本せいが買い取って宣伝に使われておりました。

 

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米兵相手にキャバレーを

昭和20年(1945年)の敗戦後の吉本興業は、惨憺たるものでした。

寄席は全滅、芸人は花菱アチャコのみという状態。
正之助はお笑い興業としての再起はあきらめ、アメリカ映画や米兵向けキャバレーの経営で活路を見いだそうとします。

なんせ、大阪の街も大部分が焼け落ち、日本中で何もありません。
その日本の焼け跡を、闊歩していたのは若い米兵たちでした。

「そこのカワイコちゃん。食べ物をあげるから俺とデートしないかい?」
なんてチョコレートを見せつつ、女性を誘ったり、若い娘がいる家に食料を持って遊びに行ったり。
そんな状況ですから、女の子と遊べる店を作ればそりゃ儲かるわけです。

吉本には、エンタメを通じて培ったショウビジネスの勘がありました。

アメリカからマーカス・ショーを呼び寄せた経歴もあるわけですから、アメリカ兵が喜びそうなセッティングもお手の物。
こうして作られた『グランド京都』は、華やかなものでした。

ギラギラとミラーボールが輝き、ジャズバンドが演奏し、ダンサーが体をくねらせる。
コネと経験を用いて、まずはこうしたキャバレーを設置。
日本人が食べるものにも事欠く中、この娯楽の宮殿内で、米兵たちは浴びるようにビールを飲んでいました。

昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が始まると米兵は日本を去りました。
米兵向けキャバレーは、日本の若者向けディスコへと変貌を遂げ、この年、凄腕の女興行師・吉本せいも闘病生活の末、世を去りました。

 

吉本とスポーツ

昭和27年(1952年)、吉本はキャバレーを辞めました。
このあと、何に一枚噛んだかというと、当時、大ブームであったプロレスです。

昭和30年代、プロレスは国民的な娯楽として急成長しました。
試合中の流血シーンをテレビで見た老人が、何人もショック死して社会問題として取り上げられたほどです。
映画『仁義なき戦い』でもプロレス興行のシーンがあったのをご記憶の方もおられるでしょうか。

その人気を圧倒的なものにした人物が……。

当時、相撲の世界に力道山という力士がいました。
優勝を争ったこともある実力者で、大関昇進も見えてきたところで、1950年突如自ら髷を切り廃業してしまったのです。

失意の力道山は、新田建設社長・新田新作、興行師の永田貞雄を味方に付け、プロレスへの進出を目指します。

このとき、一枚噛んだのが吉本でした。
東京を任されていた正之助と弟・弘高は、アメリカでプロレスが人気を博していることに目をつけ、日本でも将来流行すると目を付けたのです。

力道山に、シャープ兄弟や木村政彦といったカードをぶつける。
そんな発想は、お笑いで鍛えた林兄弟ならではの案でした。

 

ただし、林兄弟の名は、プロレス興行史には刻まれていません。

彼らはあくまで金の臭いを嗅いで一枚噛んだのであり、心の底からプロレス興行に打ち込んでいこうと思っていなかったのでしょう。
その人気に陰りが出た途端パッと身を引いてしまいます。

ショウビズに一枚噛んできた林兄弟は、嗅覚も抜群でした。
かつての日本では大学野球が人気を博しており、エンタツ・アチャコの当たり演目『早慶戦』もそれがモチーフです。

林弘高はアメリカでプロ野球が人気だと知り、これは日本でも受けると踏んでいました。
正之助が巨人軍の株主だったこともあるほどです。

日本人の間でスポーツ熱が高まっていた昭和39年には、大ボウリング場「ボウル吉本」も経営。
吉本はお笑いだけではなく、スポーツにも関わっていたのです。

 

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吉本興業の名物会長

さて、その後の吉本ですが……。

映画業界に絞って、お笑いには手を出しませんでした。
ライバルの松竹が演芸業界で勢いを増しても映画にこだわり続けます。

ところが、です。
映画に頼りっきりだった映像業界にも黒船がやってきました。

テレビです。

その躍進っぷりに恐れを抱いたのは実は正之助ではなく、同社の八田竹男という人物。
彼の熱意、訴えによって再びお笑いを始め、うめだ花月をオープン。

吉本新喜劇を立ち上げ、テレビに進出するも正之助が病に倒れたり、後を継いだ弟の弘高もまた病気になったり、吉本は低迷期を迎えます。

そこで正之助が再び立ち上がって、後に漫才ブームの追い風に乗り……と、この辺りの詳細は、恐れ入りますが【吉本興業の歴史】をご覧いただければ幸いです。

ともかくテレビ放映は、全国各地まで吉本の名を広め、その死まで君臨し続けたのが林正之助でした。

華やかな成功の一方で、アウトローとの黒い交際、手段を選ばないライバル潰し、芸人への厳しい待遇といった部分も取り沙汰されたりもします。
その存在感は、「帝王」とも「魔王」ともささやかれます。

しかし、間違いなく日本の文化・芸能に与えた影響は計り知れず……平成3年(1991年)、92才で死去。
吉本興業では社葬を行い、多くの人々が、その死を悼んだのです。

創業まもなくのころから吉本を見つめ支えてきた、巨星が墜ちたときでした。

文:小檜山青




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【参考文献】

 



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