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西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

隠れたラストサムライ・河井継之助 長岡の傑物が幕末に見せた手腕とは?

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河井継之助ならば長岡戦争も避けられた!?

8月15日は終戦記念日。
数々の戦いにも必ず終わりが訪れます。幕末の戊辰戦争で「敗者」となった越後長岡藩の家老・河井継之助(つぎのすけ)が明治元年(1868年)の8月16日に亡くなりました。

2013年の大河ドラマ・八重の桜にも少しだけ登場していましたが、「西郷隆盛ほどの年齢に達し彼ほどの度量があれば、長岡戦争は避けられたであろう」と新政府軍幹部から微妙にディスられるように、どうにも主役にはなれない影の人物という印象が強いのではないでしょうか。

有名なのは、ガトリング銃(機関銃)を導入したことくらい。
でも、本当はすごいラストサムライだったのです。

河井継之助/wikipediaより引用

 

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藩主・牧野忠雅に見出されて藩政改革に取り組む

幕末においては執政として藩政を担った河井継之助。
父は家禄120石の勘定奉行と、さほど良い家の出身ではありませんでした。

が、若い頃に日本のあちこちを放浪しながら勉学に励んでいたそうで、特に長崎を訪れてからは開国論に傾きました。

継之助にとってラッキーだったのは、藩主・牧野忠雅が非常に話のわかる人だったことでしょう。
忠雅は幕府の老中としてペリーの黒船来航へ対処したこともあり、身分を問わず家臣から幅広い意見を募っていました。

その中で継之助が提出した第二次長州征伐(幕府が敗北する)へ幕府側に立って参戦することに反対する意見書が目に留まり、「お前に任せたい仕事があるから、長岡へ戻って来い」と命じられるのです。
1866年、大抜擢された継之助は、家伝の会計能力と西洋の知識を存分に生かして藩政改革に力を注ぎます。

 

アベノミクスをこえるカワイノミクス

彼が目指したのが、まず「庶民を豊かにすることで藩の財政を立て直す」という、現代の日本人が聞いても羨ましい立派なものでした。

実際に、
代官の収賄禁止
100石以上の藩士の禄は減らし100石以下のものは増やす
水が腐ったような土地の免税
川の通船税取立て廃止
などを敢行。
そしてわずか1年で藩の余剰金9万9000両を残すのです。てか、どれだけ悪徳代官ばっかだったんだよ、長岡藩……。

当然、重臣たちから「殿に気に入られたからって偉そうに!」と反感を買ってしまいました。
が、空気なんて読まない継之助はめげません。

その後、大政奉還などいろいろあった後に戊辰戦争が勃発します。
当初、長岡藩は新政府軍にも幕府軍にもつかず、中立を保ちながら両軍の仲立ちをしようとしていました。
「国内でごたごたしてもしょうがないだろ!今外国が攻めてきたらどうする気なんだ!」というわけです。

ただ、大政奉還後に、幕府と薩長を調停しようと名乗り挙げたのはいいのですが
「もう一度、徳川に任せたらどうだろう」
なんて、藩主の名代としてKYなことを言ってしまったのが後に響きます。

長岡藩の牧野家は、薩長のような外様大名ではなく、徳川に恩のある譜代大名だったからです。

 

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丸腰ではダメ! →連射可能なガドリング砲を購入する

長岡藩は、「武装中立」を目指していたので、継之助の財政改革の結果、潤沢な資金で当時の最新武器を外国から買い集めました。
丸腰の相手の言うことをすんなり聞いてもらえると思うほど、小身から藩の事実上のトップに上り詰めた彼は理想主義者ではありません。

このとき買った武器はアームストロング砲・ガトリング砲・エンフィールド銃などでした。
アームストロング砲はいわゆる大砲のこと。
会津の鶴ヶ城に大ダメージを与えた大砲として有名ですが、会津側にたった長岡藩も持っていたのです。

ガトリング砲は現在の機関銃とは随分形が違いますが、画期的な連射式の銃でした。
エンフィールドはいわゆるライフル(筒の中に螺旋状の刻みを入れることで飛距離が大幅にアップする)で、これらを江戸の藩邸や家宝を売り払ってまで買ったというのですから、継之助の有無を言わせない姿勢が窺えます。

それでも落城時には11万両の資金があって、余裕で払えたというのだから、その経済手腕はすばらしいものがありますよね。

1865年型のガドリング砲/wikipediaより引用

 

金持ちケンカせずを貫けなかったサムライスピリッツ

この背水の陣ともいえる姿勢で新政府軍と交渉に臨みましたが、聞き入れてもらえず、いよいよ幕府側として戦闘に参加せざるをえなくなってしまいます。

長岡藩は東北の諸大名が組んでいた奥羽列藩同盟として新政府軍と戦うこといなるのですが……。
ここでもギリギリまで武装中立を貫こうとします。すでに領内では同盟の会津軍が新政府軍と激戦をしています。

その中で、継之助は苦しい判断を部下に下します。
「朝廷の命令は聞け。ただし徳川への恩を忘れるな」

もう戦闘が始まっているのに、これまたKY。
必死に、現実主義者としての一面と、殿への恩顧を尽くす面とで悩み抜いたことはわかるのですがね。

そして、5月1日に、新政府軍のもとへ行き、相手の軍監の岩村高俊に
「というわけで、今までのうちの藩は挙動不審ですみませんでした。でも、主人は恭順のほかなにも考えていません。ただ藩内の議論をその方向でまとめたいのでしばらく時間の猶予をお願いしたい」
と直接伝えました。

が、岩村は
「なにを今更! いまドンパチやっているの見えんのか! 猶予とかいって戦闘準備をしようというんだろ!」
と怒るわけです。まあ、そうでしょう。

この時点で長岡藩1800vs新政府4000だったので、5月19日に長岡城は炎上、奪われてしまいます。
それでも継之助は諦めません。1万6000両の大金で、外国の死の商人スネルから銃器弾薬を買い入れます。新政府軍も補給線が伸びて弾薬不足だったのです。

北越戦争を描いた浮世絵/wikipediaより引用

7月24日、まるで小説かゲームのような展開ですが、大雨と闇夜の隙をついて城を奪い返すのです。ところが、このときに継之助は左足に銃弾を受けてしまいます。相当な重傷で、指揮をとることもままならなくなりました。

その後、29日に、再度城は奪われ、物資も兵も損失していた長岡藩士達は退却せざるを得ませんでした。
継之助は板の乗せられ、会津藩を目指して密かに山道を落ち延びます。

しかし、継之助は途中の会津領の塩沢村(福島県)というところで息を引き取りました。

先に会津へ落ち延びていた藩主が派遣した幕府のお医者さんの治療も受けたのですが、当時の技術では、銃創に対する適切な処置ができなかったのでしょう。直接的な死因は、破傷風だったと言われています。42歳でした。

 

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熱い思いは修造に受け継がれアサヒビールができた

継之助は塩沢村の前に立ち寄った村でも、既に死期が迫っていることを悟っていたらしき言動をしています。
「藩主の跡継ぎを亡命させてくれ」「今後は庄内藩を頼れ」などなど、気にかかることは全て言い残しておこうとしたかのような発言の記録が残っています。

目をかけていた外山脩造(とやましゅうぞう)には、「今後は身分制度がなくなるだろうから、商人になって財力を蓄えるように」と、先見の明を示しました。
外山はこの言いつけを守り、明治になってからアサヒビールなど数々の会社の創業に関わることになります。

敗走中に継之助は「八十里 こし抜け武士の 越す峠」と自嘲を込めた句を読みました。
書いたそのまま、自分の情けなさを謳ったのでしょう。(腰と越=越後をかけている)
しかし、彼は腰抜けどころか後々のことまで細やかに考えていた、幕末史上まれにみる立派なサムライでした。

冒頭の西郷隆盛と比較した言葉は、時間の猶予をくれと頼んだ軍監の岩村高俊の発言なのですが、継之助と西郷隆盛は同い年なのです。

継之助が現代の「美魔女」のようにめちゃくちゃ若く見えたのか、それとも西郷隆盛があまりにおっさんに見えたのか。なんとも謎であります。




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【参考】
幕末ガイド
河井継之助(Wikipedia)

 




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