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徳川慶喜/wikipediaより引用




西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

徳川慶喜(一橋慶喜)77年の生涯をスッキリ解説!大政奉還後にも注目【年表付き】

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大河ドラマ『西郷どん』で「ヒー様」というアダ名で登場する重要キャラがおります。

夜な夜な盛り場に出かけていっては、そこで西郷隆盛橋本左内とも出会う――それでいてまるで暴れん坊将軍のごとく徳川家ではしかるべき地位にいる――。

一体、誰のことだと思われます?
「ヒー様」だから名前に「ヒー」の付く……と言えば、すみません、答えは全然関連性のない徳川慶喜でした。

徳川15代将軍が、夜な夜な盛り場に出る? さすがに、ありえんでしょ!
と思われるかもしれませんが、実際のところ、まだ将軍様ではなく「一橋慶喜」時代の話でありまして。
「ひとつばし よしのぶ」の「ひ」から取って「ヒー様」だったんですね。

ショーグン様にしては、ずいぶん愛らしいアダ名でありますが……そんな名前を付けられるとは一体どんな人物だったのか?

本稿では、史実における徳川慶喜の生涯をマトメてみたいと思います。

 

水戸藩を先導した藤田の過激な攘夷論

徳川慶喜は1837年、江戸の水戸藩邸にて生誕(幼名は七郎麿)。
父は徳川斉昭(1800-1860年)で、母の吉子女王(よしこじょおう)は有栖川宮織仁親王の娘でした。

幕末における水戸藩は、徳川御三家ながら、少々変わった立ち位置にあります。

というのも同藩は国境に長い海岸線を持っていて、薩摩と同様、早い時期から黒船の来航を認知していました(※ペリー来航の前に何度も外国船は来ている)。

そこで水戸では、過激な「尊皇攘夷」運動が展開されることになります。

その筆頭が藤田東湖(1806-1855年)であり、藤田の影響を受けたのが、慶喜の父・徳川斉昭でした。

藤田東湖/wikipediaより引用

 

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阿部正弘の口添えで11才にして一橋家を継ぐ

慶喜は、父・斉昭の方針に従い、江戸ではなく水戸で厳しく教育されました。

水戸と言えば藩校・弘道館が有名ですが、慶喜も同校へ通い、当時から優れた人物だとして知られていたのです。
それはときに「家康の再来」とも称されるものでもありました。

1847年、阿部正弘の口添えによって慶喜は11才で一橋家を相続。

一橋家とは、将軍候補を輩出する御三卿(ごさんきょう)の一つであり、他には田安家と清水家がありました。

※徳川吉宗から一橋家と田安家、徳川家重から清水家が生まれます
【関連記事】御三家と御三卿って何がどう違う?

同家を継いだことから慶喜の運命は、やがて時代のうねりに翻弄され始めるのです。

 

将軍継嗣問題で【一橋派vs南紀派】

1853年。
浦賀にペリー提督の率いる黒船がやってきます。

幕府や日本全体を揺るがすこの混乱の最中に12代将軍・家慶が亡くなってしまい、跡を継いだのが病弱だった13代将軍・徳川家定
島津家・篤姫の嫁ぎ先であり、同時に急務となったのが次代将軍の擁立となります。

跡継ぎの期待できない家定に代わり、誰を次の将軍を誰にするか?

いわゆる「将軍継嗣問題」と呼ばれる問題で、候補に推されたのが
・一橋慶喜
・徳川慶福(紀州藩主・過去には徳川吉宗を輩出)
の2名でした。

それぞれの支持者は
一橋派……徳川斉昭&阿部正弘&島津斉彬
南紀派……井伊直弼&本寿院
等となっており、最終的には南紀派が勝利します。

徳川家定後の14代将軍は、徳川家茂(いえもち)となりました。

徳川家茂/Wikipediaより引用

 

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火消しの親分・新門辰五郎とも昵懇に

なぜ慶喜の一橋派は負けたのか?
実はこの時期、阿部正弘と島津斉彬が相次いで亡くなって勢力を失い、大老となった井伊直弼に押し切られてしまったのです。

この政治争いから、直後に続けて起きた政治的弾圧事件が「安政の大獄」となりまして。

同騒動では、西郷隆盛も粛清の波に呑まれ、元清水寺の住職・月照と共に鹿児島の海(錦江湾)へ入水。
奇跡的に一人だけ生き還りながら、薩摩藩からは腫れ物のような扱いを受けて奄美大島へ島流しにされています。

一方、慶喜は1858年、日米修好通商条約に調印した井伊直弼を問い詰めて謹慎処分となるのですが、翌1859年の桜田門外の変で直弼が殺されると、1860年には謹慎も解除されました。

ほどなくして将軍後見職となり、再び勢いを取り戻した慶喜。
幕政改革に着手すると、1863年には将軍の名代として上洛し、朝廷との交渉を務め、外国嫌いで知られる孝明天皇にも会います。

ただし、本人は将軍職に乗り気ではなかったようで、かつて父の斉昭(1860年に死亡)に対し「将軍職に興味なし」と伝えております。

ちなみに、上洛のとき慶喜は、側室の芳と、その父にして江戸の人気火消し・新門辰五郎一派を率いておりました。
辰五郎は、いわゆるアウトローたちの親分的存在でもあり、慶喜とは互いに認めあっていたというから、デキる人とは分け隔てなく付き合うという人柄だったのでしょうね。

もしかしたら、徳川の中で本当に暴れん坊将軍キャラに近いかもしれません。

新門辰五郎/wikipediaより引用

 

第15代将軍になった途端に道はイバラだった

慶喜は、無血開城で江戸城を明け渡したせいか。
ときに臆病者で無能なイメージを持たれることはあるが、むろん決してそんなことはない。

1864年の禁門の変では、自ら戦場に出向いて御所守備軍を指揮、長州藩の撃退に助力している。
戦闘そのものは会津・桑名藩vs長州藩という構図のところに、西郷隆盛の率いる薩摩藩も会津に加勢し、一日で終わった。

御所に向かって発砲した長州藩を成敗すべく、この後、幕府軍らは第一次長州征伐に出向いて完勝。
慶喜はそれからしばらく朝廷相手の交渉を請け負っていたが、1866年に第14代将軍・家茂が死亡して、ついに徳川宗家を相続することになります。

つまり第15代将軍です。

しかし、就任した矢先から、その道はイバラそのものでした。

最初の処罰が手ぬるい!として、もう一度、集められた第二次長州征伐ですが、薩摩の協力を得られず、急遽、中止になって幕府の権威が落ちまくります。
ご存知の通り、薩摩と長州は手をつなぐのでした(薩長同盟)。

さらに朝廷では、外国嫌いで中々話の進まない孝明天皇が崩御され、新たに明治天皇が即位。
若き天皇を盛り立てて新たな政権樹立の機運で盛り上がります。

 

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江戸時代は250年 他の者に政治がデキるワケがない

こんな状況では、いくら慶喜が有能と言ったって、劇的な反撃手段など簡単には打てません。

そこで……。慶応三年(1867年)の10月14日、京都の二条城で大政奉還を行い、形式的には江戸幕府が終わります。

なぜ「形式」かというと、慶喜はこの後もしばらく征夷大将軍であり続けるからです。

そもそも慶喜は「朝廷に権力を返しても、あいつらずっと政治やってなかったんだからちんぷんかんぷんだろ? きっとオレたちに泣きついてくるに違いない」と踏んでいました。

その昔、鎌倉幕府が倒れたとき後醍醐天皇が親政(天皇が直接政治を行うこと)しようとしたときも、たった百年程度で政治のいろはもわからなくなっていたのですから。
まして江戸幕府は二百五十年も続いていましたし、当時15歳で即位したばかりの明治天皇や公家たちがまともに政治をできるわけがないと思っていたのでしょう。

しかも、当時の朝廷で権力を持っていたお偉いさんは皆親幕府派。
明治維新の中核になった岩倉具視達は、位としては下のほうであって、朝廷への影響力がほとんどなかったのです。

徳川慶喜/wikipediaより引用

 

岩倉や倒幕派もなんとかして追い払おうと……

ですから、慶喜は「中枢が幕府から朝廷になるだけで、徳川家=自分がその下で実質的なトップになれることは間違いない!だったら建前だけとっとと権力返せばいいじゃん!オレ頭いい!!」と考えたのでしょう。

とはいえ慶喜も朝廷を牛耳るつもりはなかったらしく、西周(にしあまね)という学者出身の側近と相談して「天皇の下に武家が中心の議会を作って、イギリスみたいにしたらいいんじゃね? 議長はオレな。あと三権分立とかいうのも取り入れよう」と、なかなか近代的な仕組みを作ろうとしていたようです。
この辺は流石「家康の再来」と言われたほどの人物という感があります。

ところが、です。そんなことお見通しの岩倉や薩摩・長州など討幕派は、何とかして慶喜を追い払おうと知恵を絞ります。
大政奉還の後しばらく「新しい政府がまだできてないから、それまでの間は旧幕府の人が政治をしていいよ」ということになっていました。

チャンスはここしかありません。
これを逃せば、徳川家とその一門・旧幕府の老中達が権力を握り続けるに決まっています。
それでは朝廷に権力が戻ったことになりません。

 

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「慶喜とその子孫とは付き合わないように!」

そこで討幕派はクーデターを行い、完全に徳川家を政治から追いやるべく動き始めます。

まず王政復古の大号令を発して「もう徳川家の席ねーから!」と宣言し、さらに薩摩藩が旧幕府軍を挑発して武力衝突に持ち込みました。
ここで薩長軍が「錦の御旗」=天皇に認められた証を掲げたことにより、薩長軍=官軍、旧幕府軍=朝敵という構図を無理やり作ったのです。

実にえげつないこの事件が鳥羽・伏見の戦いです。

とはいえ慶喜も本当に朝敵になってしまってはたまりません。
そこで兵を置いてとっとと江戸へ逃げてしまいました。

しかし、これがその後の慶喜の評判を大きく落としてしまいます。

特に大奥や江戸に残っていた重臣達からは一人だけ逃げ帰ってきたと思われ「(°Д°)ハァ?意味わかんないんですけど!?」と大クレームをくらいます。

そのためか、先代将軍の御台所(正妻)・和宮へ朝廷への取り成しを頼んだときも嫌がられる始末。
その姑・篤姫に至っては徳川宗家を継いだ亀之助(家達)へ「慶喜とその子孫とは付き合わないように!」とまで言っています。

なんかこう、頭が良すぎる人特有の気の利かなさというか。「こうしたら周りがどう思うか?」という想像力に欠けてたんですかねえ。

 

逃げて逃げて最後は国会議員!?

その頃、朝廷からは正式に「慶喜は朝敵だから皆でやっつけようね!」という命令が下りました。

これに対し、慶喜は上野の寛永寺(徳川家の菩提寺)で「いやいやそんな滅相もない、私はこの通り謹慎して反省しております」とアピールするのですが、既にやる気満々の新政府軍には効きません。
ことここに至っては慶喜も政治への関与を諦めざるを得ず、徳川家当主の座も譲り渡して謹慎中のまま隠居生活に入ります。

その後は徳川家縁の地・駿府(静岡)で静かに過ごしました。

写真や狩猟など、趣味に没頭してまさに「ご隠居様」としての生活を楽しんでいたようです。
将軍だった頃は趣味を楽しんでいる暇もなかったでしょうから、ホッとしていたかもしれませんね。

維新のほとぼりも冷めた明治三十年(1897年)には東京・巣鴨に移り、5年後には貴族院議員として再び政治に関わることになります。

岩倉や西郷など、維新の中心となっていた人物は軒並みこの世を去っており、静岡でも野心を見せずにいたことが良かったのでしょう。
そして8年ほど勤めた後再び隠居し、大正二年(1913年)に亡くなりました。

享年77。時代のせいもありましょうが、徳川将軍としては最も長生きされた方でした。

昔は「敵前逃亡なんてとんでもない柔弱なヤツだ!」と悪評高かった慶喜ですが、最近は「いや、慶喜がさっさと降参したから江戸が火の海にならなくて済んだんじゃね?」と再評価する動きもあります。

大河ドラマでは悪役の代名詞みたいになってますが、そろそろまともに扱ってもいいんじゃないですかね。

大政奉還から戊辰戦争が終わるまでのドタバタが超わかる! 幕末のクライマックスとは?

長月 七紀・記

【参考】国史大辞典 徳川慶喜/wikipedia

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【徳川慶喜の生涯年表with重要事項】

1827年 西郷隆盛生まれる
1837年 1才 慶喜、江戸にて生誕
1839年 3才 蛮社の獄(高野長英・渡辺崋山)
1840年 4才 アヘン戦争
1841年 5才 天保の改革(水野忠邦)
1847年 11才 一橋家を相続
1851年 15才 ジョン万次郎帰国
1853年 17才 ペリー来航
1854年 18才 日米和親条約・篤姫と徳川家定の結婚
1855年 19才 一条美賀子を正室に迎える
1858年 22才 日米修好通商条約・島津斉彬が急死・安政の大獄
1859年 23才 吉田松陰が死刑
1860年 24才 桜田門外の変
1862年 26才 寺田屋事件(薩摩若手藩士の粛清)・生麦事件
1863年 27才 下関戦争・薩英戦争
1864年 28才 禁門の変で戦場へ・第一次長州征伐
1866年 30才 薩長同盟
1867年 31才 大政奉還・明治天皇即位・坂本龍馬暗殺
1868年 32才 戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い・会津戦争・北越戦争・上野戦争・箱館戦争)
1869年 33才 版籍奉還
1871年 35才 廃藩置県
1874年 38才 不平士族の反乱(佐賀の乱
1876年 40才 廃刀令・秩禄処分・不平士族の反乱(神風連の乱・萩の乱・秋月の乱)
1877年 41才 西南戦争
1878年 42才 東京で伝統・紀尾井坂の変で大久保利通暗殺・東京株式取引所
1879年 43才 琉球藩が沖縄県
1881年 45才 明治十四年の政変・松方デフレ
1882年 46才 日本銀行
1886年 50才 ノルマントン号事件(不平等条約の撤廃へ)
1888年 52才 市町村の制定
1889年 53才 大日本帝国憲法・皇室典範・大隈重信、襲撃される
1890年 54才 第一回衆議院議員選挙
1891年 55才 足尾銅山鉱毒事件・大津事件
1894年 58才 日清戦争
1895年 59才 樋口一葉「たけくらべ」・下関条約・三国干渉
1896年 60才 ギリシャのアテネで第1回オリンピック
1897年 61才 慶喜、巣鴨へ引越し
1899年 63才 東京―大阪の長距離電話が開通
1900年 64才 治安警察法
1901年 65才 八幡製鉄所が操業
1902年 66才 日英同盟
1904年 68才 日露戦争
1905年 69才 夏目漱石「吾輩は猫である」・ポーツマス条約
1906年 70才 鉄道法・南満州鉄道株式会社の設立
1907年 71才 ハーグ密使事件
1908年 72才 赤旗事件
1909年 73才 伊藤博文が暗殺される
1910年 74才 韓国併合
1911年 75才 平塚らいてう青踏社
1912年 76才 辛亥革命・大正天皇即位・乃木希典殉死
1913年 77才 徳川慶喜、永眠




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