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徳川慶喜/wikipediaより引用

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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還 それでも江戸幕府は残ると信じていた!?

更新日:

大政奉還しても自分の力が必要になる そう踏んでいた徳川慶喜

学校で必ず覚えさせられる江戸幕府の将軍は、家康・家光・綱吉・吉宗・慶喜の5人。
江戸時代をおおざっぱに言うと、家康が幕府を作って、家光が鎖国して、綱吉が生類憐みの令を出し、吉宗が目安箱(享保の改革)……ときて、慶喜が朝廷に権力を返して幕府が終わったということになりますね。
が、最後の将軍・慶喜は徳川家には愛着がなくても、将軍職にはこだわっていたような節があります。

慶応三年(1867年)のあす10月14日、十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が京都の二条城で大政奉還を行い、形式的には江戸幕府が終わりました。

なぜ「形式」かというと、慶喜はこの後もしばらく征夷大将軍であり続けるからです。

そもそも慶喜は「朝廷に権力を返しても、あいつらずっと政治やってなかったんだからちんぷんかんぷんだろ? きっとオレたちに泣きついてくるに違いない」と踏んでいました。

その昔、鎌倉幕府が倒れたとき後醍醐天皇が親政(天皇が直接政治を行うこと)しようとしたときも、たった百年程度で政治のいろはもわからなくなっていたのですから。
まして江戸幕府は二百五十年も続いていましたし、当時15歳で即位したばかりの明治天皇や公家たちがまともに政治をできるわけがないと思っていたのでしょう。

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頭が良すぎて空回り「家康の再来」

しかも、当時の朝廷で権力を持っていたお偉いさんは皆親幕府派でした。
明治維新の中核になった岩倉具視達は、位としては下のほうであって、朝廷への影響力がほとんどなかったのです。
ですから、慶喜は「中枢が幕府から朝廷になるだけで、徳川家=自分がその下で実質的なトップになれることは間違いない!だったら建前だけとっとと権力返せばいいじゃん!オレ頭いい!!」と考えたのでしょう。

とはいえ慶喜も朝廷を牛耳るつもりはなかったらしく、西周(にしあまね)という学者出身の側近と相談して「天皇の下に武家が中心の議会を作って、イギリスみたいにしたらいいんじゃね?議長はオレな。あと三権分立とかいうのも取り入れよう」と、なかなか近代的な仕組みを作ろうとしていたようです。
この辺は流石「家康の再来」と言われたほどの人物という感があります。

が、そんなのお見通しの岩倉や薩摩・長州など討幕派は、何とかして慶喜を追い払おうと知恵を絞ります。
大政奉還の後しばらく「新しい政府がまだできてないから、それまでの間は旧幕府の人が政治をしていいよ」ということになっていました。

チャンスはここしかありません。
これを逃せば、徳川家とその一門・旧幕府の老中達が権力を握り続けるに決まっています。
それでは朝廷に権力が戻ったことになりません。

 

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篤姫「あの人に触っちゃいけません、チキンだから」慶喜「……」

そこで討幕派はクーデターを行い、完全に徳川家を政治から追いやるべく動き始めます。
まず王政復古の大号令を発して「もう徳川家の席ねーから!」と宣言し、さらに薩摩藩が旧幕府軍を挑発して武力衝突に持ち込みました。
ここで薩長軍が「錦の御旗」=天皇に認められた証を掲げたことにより、薩長軍=官軍、旧幕府軍=朝敵という構図を無理やり作ったのです。
実にえげつないこの事件が鳥羽・伏見の戦いです。

とはいえ慶喜も本当に朝敵になってしまってはたまりません。
そこで兵を置いてとっとと江戸へ逃げてしまいました。

しかし、これがその後の慶喜の評判を大きく落としてしまいます。

特に大奥や江戸に残っていた重臣達からは「(°Д°)ハァ?意味わかんないんですけど!?」と大クレームをくらいます。

そのためか、先代将軍の御台所(正妻)・和宮へ朝廷への取り成しを頼んだときも嫌がられる始末。
その姑・篤姫に至っては徳川宗家を継いだ亀之助(家達)へ「慶喜とその子孫とは付き合わないように!」とまで言っています。
なんかこう、頭が良すぎる人特有の気の利かなさというか、「こうしたら周りがどう思うか?」という想像力に欠けてたんですかねえ。

 

逃げて逃げて最後は国会議員!?

その頃朝廷からは正式に「慶喜は朝敵だから皆でやっつけようね!」という命令が下りました。
これに対し、慶喜は上野の寛永寺(徳川家の菩提寺)で「いやいやそんな滅相もない、私はこの通り謹慎して反省しております」とアピールするのですが、既にやる気満々の新政府軍には効きませんでした。
ことここに至っては慶喜も政治への関与を諦めざるを得ず、徳川家当主の座も譲り渡して謹慎中のまま隠居生活に入ります。

その後は徳川家縁の地・駿府(静岡)で静かに過ごしました。

写真や狩猟など、趣味に没頭してまさに「ご隠居様」としての生活を楽しんでいたようです。
将軍だった頃は趣味を楽しんでいる暇もなかったでしょうから、ホッとしていたかもしれませんね。
維新のほとぼりも冷めた明治三十年(1897年)には東京・巣鴨に移り、5年後には貴族院議員として再び政治に関わることになります。
岩倉や西郷など、維新の中心となっていた人物は軒並みこの世を去っており、静岡でも野心を見せずにいたことが良かったのでしょう。
そして8年ほど勤めた後再び隠居し、大正二年(1913年)に亡くなりました。

昔は「敵前逃亡なんてとんでもない柔弱なヤツだ!」と悪評高かった慶喜ですが、最近は「いや、慶喜がさっさと降参したから江戸が火の海にならなくて済んだんじゃね?」と再評価する動きもあります。
大河ドラマでは悪役の代名詞みたいになってますが、そろそろまともに扱ってもいいんじゃないですかねー。

長月 七紀・記

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【参考】徳川慶喜/wikipedia 国史大辞典

 





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