江戸時代になると、公的な記録だけでなく、庶民の意見も色々と残っているのがありがたいところ。
今回の注目は天保十二年(1841年)閏1月7日に亡くなった、11代将軍・徳川家斉(いえなり)です。
学校の授業だと見事にすっ飛ばされる将軍の一人ですが、彼の時代には割とデカイ事件も起きています。というか彼自身も「子供を55人も作った」という、良いのか悪いのかよくわからん記録を打ち立てています。
それは一体どんな治世だったのか?
順を追ってみていきましょう。
※子供の数53人とする記述もありますが、国史大辞典に準拠して55人としております
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一橋家の長男として生を受け 15歳で将軍に
家斉は御三卿のひとつ・一橋徳川家の二代目、徳川治済(はるさだ)の長男として生まれました。
御三卿とは、江戸時代の中ごろに作られた徳川家の分家で、徳川本家と御三家(尾張・紀州・水戸)の次にエライということになっていたので、かなりいいとこの生まれだということになります。
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しかし、彼にとってはこの生まれが良かったかどうか。
というのも、十代将軍・徳川家治の息子・徳川家基(いえもと)が急死したとき、他に適当な男子がいなかったため、あれよあれよという間に次の将軍候補として家治の養子にされてしまったのです。
そして家治自身もまたその七年後に急死してしまい、家斉は15歳で将軍になりました。
もとの濁りの 田沼こひしき
養子入りの際、元服していたので一応大人扱いではありました。
が、まだまだ若く政治のせの字もわからないような状態ですから、実際に執務を取り仕切るのは老中をはじめとしたお偉いさんです。
このころ家治時代に重用されていた田沼意次が罷免され、代わりに松平定信が老中首座という老中のリーダー格になりました。
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その後どうなったか。当時の人々からはこんな評価がされています。
【定信就任直後】
「田や沼や よごれた御世を 改めて 清くぞすめる 白河の水」
【意訳】田んぼや沼のように汚れた世の中を、白河藩主の定信様が改めてくださるに違いない
当初は田沼意次の政治からの脱却が好まれたんですね。
松平定信は、8代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、幼少期から文武両道に優秀だったため、徳川家治に取り立てられたんですね。
実際、幕政に参加する前は白河藩主として【天明の大飢饉】で東北唯一、餓死者を出しませんでした。
そりゃ期待も厚くなるというものです。
しかし、しばらくすると急転します。
【就任からしばらくして】
「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」
【意訳】白河の水はきれい過ぎて魚も住めない。田んぼや沼のように少しにごっているくらいがちょうどいい
民衆が都合の良いことばかり言うのは今も昔も変わりません。
権力者が変わったくらいで全ての人が暮らしやすくなるのなら、戦争なんぞとっくの昔になくなっているでしょう。
そんな経緯を経て、定信は数年で失脚するのですが、家斉はその理由が飲み込めていなかった節があります。
というのも、新しい老中首座に定信の補佐役だった松平信明を任じているのです。
やり方そのものが悪かったのに、担当者を変えれば何とかなるだろうと思っていたんでしょうね。何だか現代でもありそうな話です。
というわけで定信の方針はその後しばらく続き、幕府の悪評と財政悪化が解決することはありませんでした。そして……。
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