天保8年(1837年)の2月19日、大塩平八郎の乱が起き、わずか半日で鎮圧されました。
誰もが歴史の授業で習うこの騒動。
元役人が庶民のために立ち上がった――という印象が強いかもしれませんが、実際は大坂の街が1/5も焼けてしまうという物騒な展開になっています。
では、そもそもこの乱が起きたキッカケはなんぞや?
というと江戸四大飢饉のひとつ【天保の大飢饉】です。
今回は本題の前に、江戸時代の大飢饉とそれに呼応する出来事からマトメておきましょう。
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江戸四大飢饉と対応する事件まとめ
1 寛永の大飢饉(1640年~1643年)
三代将軍・徳川家光の時代
→いろいろと禁止して武士が貧乏になっていく
2 享保の大飢饉(1731年~1733年)
八代将軍・徳川吉宗の時代
→サツマイモが救荒作物として奨励される
3 天明の大飢饉(1782年~1788年)
十代将軍・徳川家治の時代
→御所千度参り(京都御所の周囲を人々が回る)
4 天保の大飢饉(1835年~1839年)
→大塩平八郎の乱 ※今日ここ
試験に出る時はセットで語られたりしそうですので、学生の読者さんがいらっしゃいまいしたら、一緒に覚えておくと効率よいかもしれません。
では、本題へ。
景気悪いときにさらに消費減らすって中世かよ!→現代も?
江戸時代は上記のように飢饉が頻発していたわけで、これに対して幕府の対策は基本的に「質素倹約!」の一点張り。
米がダメになったときでも採れる作物はなかなか広まっていません。
確かにサツマイモ栽培は一定の支持がありましたが、全国で餓死者を防ぐほどの割合ではありませんでした。
確かに、毎日、焼き芋とかふかし芋とか大学いもだと、ちょっとキツイですもんね。米より日持ちしませんし。
まだ科学が発達していない時代というのも影響しておりました。
天明の大飢饉のときは「田沼意次が悪政をしたから」という迷信が信じられていたくらいですから、「もう悪いヤツはいないんだから飢饉は起こらない!」と考えられていたのかもしれません。それにしては反省しなさ過ぎですが……。
※以下は田沼意次の関連記事となります
田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人? 評価の見直し進む
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天明と天保の飢饉の間は50年も開いていません。
もしかすると両方経験した、運悪く生命力の強い御仁もいたかもしれませんね。
建物を壊しても人には危害を加えない
こうした幕府のダメっぷりに対し、庶民ができることといえば二つに一つ。
お上のいうことを聞いて耐え忍ぶか。
裕福な商人を襲う「打ちこわし」をするか。
餓死するぐらいなら、実力行使に出てもおかしくなく、天保の大飢饉の際にも、当然、打ちこわしは頻発しました。
この頃は米の【買占め・専売】によって荒稼ぎをした強欲商人もたくさんいたので、襲われてしまうのもある意味自業自得なんですけどね。
ただし、あくまで抗議行動の一つなので、「建物を壊しても人には危害を加えない」という最低限のルールが定められており、放火もご法度でした。
もし打ちこわしの度に放火までしていたら、江戸だけでなく京都や大阪でも、もっと火災が増えていたでしょう。
天明の打ちこわしが実に日本人らしい件「礼儀正しく狼藉」とはこれ如何に?
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しかし、ルールがあるとはいえ庶民の我慢にも限界があります。
天保の大飢饉の際は特に【天下の台所・大坂】での被害が大きく、毎日、数百人もの餓死者が出る有り様でした。
しかも理由の一つが「大坂より江戸が大事なんで、この米は江戸に送りますね。皆さん頑張ってください^^」というお役所仕事のせいだったというのですから始末に負えません。
「だめだこいつは、早く何とかせねば」
そう考えたのが、元役人の大塩平八郎でした。
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