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徳川吉宗/Wikipediaより引用

江戸時代 その日、歴史が動いた

御三家と御三卿って何がどう違う?徳川吉宗が御三卿の田安家を創設する

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そもそもは8代吉宗の発想で始まった御三卿

「紀伊・水戸・尾張の御三家はわかるけど、田安・一橋・清水の御三卿って一体なんなの?」
「田安家と言ってるのに、何で将軍様になれるの??」

江戸時代モノのドラマを見ていて、こんな疑問を抱いたことはありませんか?
今回はそのナゾを解いていきたいと思います。

享保十五年(1730年)の11月10日、江戸幕府八代将軍・徳川吉宗が御三卿のはしりとなる田安家を創設しました。

御三卿というのは要するに徳川本家(宗家)から見た分家のようなもの。家康が「後々、徳川の血が絶えたら困るから」と御三家を作ったように、吉宗も「御三家だけじゃ心もとない。段々血が離れて行くって問題もあるし、ワシの子らにも分家させておこう」というわけで作られたのでした。

他の養子先と違って徳川の姓を名乗り続けられるため、実際には「将軍の親戚」というような位置づけだったようですね。
田安家・一橋家が吉宗、清水家は九代家重から分かれて計三つの家が作られたため、既に存在していた御三家になぞらえて「御三卿」と呼ばれるようになりました。

 

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跡取りなくとも改易喰らわず だって将軍様だもの

この田安とか一橋というのは名字ではなく、屋敷のあった場所から取った便宜的な呼び名です。
正式には「田安・一橋・清水(に住んでる)徳川家(の人)」ということになりますが、長いので本やドラマだと「田安家のナントカ様がうんぬん」という台詞にしているのでしょう。
時代考証的には合ってますが、視聴者にはあんまり優しくないですよねえ。

現在でいえば、田安家は日本武道館北あたり、一橋家は竹橋駅前、清水家は田安家の少し東側に屋敷を持っていました。
将軍の住む江戸城本丸は今の皇居東御苑ですから、ホントにすぐ近くの親戚って感じです。

御三卿の当主を決める・養子を迎えるもしくは出すのも将軍が決めていましたし、もちろん特権もありました。
通常の大名家は跡取りがいないと改易をくらいますが、御三卿は当主がいなくなっても「身内だからそのうち適当な人がいれば家名復活させるよん」ということでそのまま名前だけが残っている……なんてのが一つ。
これを「明屋敷」(あけやしき)といいます。
「空き屋敷の間違いじゃないのか」「当主いなくちゃお先真っ暗じゃねーか」とツッコみたくなりますが、将軍が家を保障してくれてるんですから先行き明るいですよね。そういう問題じゃない?

 

ドコから来ようとドコへ行こうと必ず権現様へつながる

元々が「宗家にも御三家にも良い人材がいないときに養子を出す」ための家ですから、御三卿はあっちこっちへぼんぼこ養子を出しまくります。
時には「明屋敷になっちゃうけど、宗家と御三家のほうが大事だからいいよね!」なんてこともありました。
家がなくなるわけではないので気楽なものです。

そういうときは御三卿の別の家からさらに養子をもらっていました。
一橋慶喜(十五代将軍)のように、格上にあたる御三家から来た人もいます。
逆に、田安家から御三家の紀州へ養子に出た人の子供が、宗家に戻ってきたという例もありました。十四代の家茂です。
どこも元を辿れば吉宗、さらに遡れば家康に行き着くので「大丈夫だ、問題ない」ということだったのでしょう。

 

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コメ政策や目安箱よりも御三卿の功績が一番かもですね

特に将軍の実子がいなくなってしまった十代家治の頃からは後継者候補として御三家に並び、御三卿の名前も多く出てくることになります。
十一代将軍・家斉は一橋家の出身ですし、十二〜十三代までは血が続いたものの、先述のように十四代(のお父さん)と十五代も御三卿から来ています。
こうなるともう御三家の意味が怪しくなってきますね。

徳川吉宗

徳川吉宗/wikipediaより引用

が、後継者に困っていたのは宗家だけでなく御三家もだったので、御三卿の存在は実にありがたいものになっていくのでした。
吉宗というとまず米や倹約が連想されますが、こうしてみると御三卿の設置が一番の功績かもしれませんね。

長月 七紀・記




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【参考】国史大辞典 徳川御三家/wikipedia 御三卿/wikipedia

 



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