2023年春――NHKドラマ10『大奥』第9回放送に登場した徳川家重が話題になりました。
徳川吉宗や姉妹、重臣たちが揃う前で失禁してしまったのです。
あれはマンガ原作だからなのか?
実は、史実においても、何かと言われようの厳しい家重。
父の吉宗が”中興の祖”ですから、比較されてしまうのは仕方のないこととはいえ、当人に「小便公方」という屈辱的なアダ名が付けられてしまうのです。
人生のほとんどを江戸城という限られた空間で、ごくわずかな特定の人としか直に接しない生活の上に、そんな目で見続けられていたとしたら、どれだけキツかったことか。
正徳元年(1712年)12月21日に生まれた徳川家重の生涯を振り返ってみましょう。
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幼少の頃から偏見の目で見られ!?
徳川家重が生まれた正徳元年(1712年)は、父の吉宗がまだ紀州藩主時代、江戸藩邸でのことでした。
母は紀州藩士・大久保忠直の娘・お須磨の方。
父親の将軍就任に従って江戸城に入ったのですが、この頃から既に偏見の目で見られていたらしき形容をされています。
というのも、生まれつき何かの病気で言語が不明瞭になっていたため、「これでは跡継ぎにふさわしくない」と言われまくっていたのです。
『徳川実紀』にも「御言葉さわやかならざり(ちょっと何言ってるかわかんね)」なんて書かれていて、実際、もう少しで幕閣に廃嫡されかかったこともありました。
それでも吉宗は、長男の家重を跡継ぎに選びました。
家重には、徳川宗武(御三卿・田安家の初代)や、徳川宗尹(御三卿・一橋家の初代)など、二人の弟がいたのに、吉宗は長幼の序(年齢の序列)を重んじたとされます。
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あるいは、家重自身ではなくその息子、つまり吉宗から見れば孫である徳川家治を将来将軍にするためとも囁かれたり。
いずれにせよ、家重が将軍の座に就いても、吉宗は存命中ずっと大御所として権力を保持しておりました。
最初っからそのつもりだったのかもしれませんね。
寛永寺までの道中に23ヶ所のトイレ
徳川家重は享保10年(1725年)に十五歳で元服。
九代将軍に就任したのは延享2年(1745年)のことです。
しかし、前述の通り父の政権運営が長引いたため、家重の親政が始まったのは寛延4年(1751年)で、それから十年ほどしか親政は行われていません。
しかも、ストレスのせいか体質のせいか、頻尿に悩まされていた家重は市井の人々からもバカにされ、
【小便公方】
とまで言われていました。
徳川家の菩提寺・上野寛永寺までの道中に23ヶ所もトイレを作らせたからだといわれているのですが、にしてもあんまりなアダ名ですよね。
現代でもこの症状に悩まされている人は多いので、何となくわかる方もいらっしゃるかと思いますが、頻尿というのは臓器の疾患だけでなくストレスで悪化することがままあります。
つまり、家重の頻尿は幕閣その他からのプレッシャーで悪化していた可能性が非常に高いということです。
どう考えても23ヶ所というのは多すぎますから、実際に使うかどうかというよりも「そのくらいの数がないとすぐ行けない」という不安の大きさの表れなのではないでしょうか。
当時の知識ではストレスと病気の関連性なんてわかりませんから、仕方のないことではありますが……にしても酷いものです。
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