日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

少し石原裕次郎に似ている気も・・・/Wikipediaより引用

スポンサーリンク

西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

木戸孝允(桂小五郎)の出世道 意外なほど気さくな「維新の三傑」

更新日:

幕末というと怒涛の暗記ラッシュのため、特に興味のない人からすると地獄のような時期ですが、仮に「幕末の人物といえば?」という質問をしてみると何となくその人の好みがわかるような気がします。
ほとんどの人はやっぱり坂本竜馬でしょうかね。というか、ほとんどの人は明治時代以降のイメージが強すぎて、あまり幕末と結びつかないのかもしれません。何回も名前を変えてる人もいますしね。
本日はその後者のお一人がメインです。

明治十年(1877)の5月26日、木戸孝允(桂小五郎)が亡くなりました。

少し石原裕次郎に似ている気も・・・/Wikipediaより引用

少し石原裕次郎に似ている気も・・・/Wikipediaより引用

この時代の人にしてはやたらと洋装の似合う方で、いかにも生真面目そうな顔つきですが、フタを開けてみればなかなか面白い性格であったらしき記録がたくさん残っています。
名前の移り変わりがものすごく多い人なのですが、面倒なので木戸孝允で統一しますね。

医者の家に生まれたが武家の養子に出され

生まれは今の山口県萩市、お医者さんの家でした。

待望の長男ではありましたが、体が弱く「この子は無事大人になれないんじゃないだろうか」と思われていたので、幼い時期に武士の養子に入っています。
が、体の弱さとは裏腹に度胸は据わっていたらしく、”川を行き来する船をひっくり返しては大爆笑する”という今だったら間違いなく生活指導ものの悪戯が大好きだったとか。よく人を殺さなかったものです。

一方そんな悪戯好きの子供によくあること?で、彼は頭の回転も素早い人でした。
地元の殿様・毛利敬親は身分を問わず広く人材を募っており、孝允にも試問したことがあるのですが、彼は二回合格しているのです。
内容は即興で漢詩を作ること、そして儒教の本「孟子」の解説だったそうですから、カンニングや暗記だけではこなせません。素で頭がいい人って何でもできちゃいますもんねうまやらしい。

武士の頃は結構いかついです/Wikipediaより引用

武士の頃は結構いかついです・髪型がリーゼントみたい/Wikipediaより引用

 

スポンサーリンク

俺はもう出家する!

「コイツ見所あるぞ」ということで藩主のお眼鏡に適った孝允ですが、そう簡単に出世はできませんでした。
というのも、その後相次いで肉親を亡くし、すっかり気落ちしてしまったからです。

一時は「俺はもう出家する」とまで言っていたそうですので、心の底から落ち込んでいたのでしょうね。

しかし一年ほど経って吉田松陰に弟子入りしてからは、学問が慰めになったのか再び頭脳明晰さを取り戻していきます。

ペリーが二回目の来航をしたときには「黒船見たいです!!!」とゴリ押しして見学しに行っているくらいですから、この頃までには立ち直っていたようです。ちなみに当時、藩のお役目など正当な理由がない限り、勝手によその藩へ行ったりすることはできませんでした。熱意パネェ。

Wikipediaより引用

Wikipediaより引用

 

スポンサーリンク

一時は長州藩を見限るが 高杉晋作の台頭で・・・ 

そして実際に黒船を見た孝允は「これからは海外で学ばないとダメじゃね?」と感じ、早速「留学したいんですけど」と申し出ます。

ですが、開国するか否かその他もろもろでバタバタしていた幕閣以下はそれどころではありません。そう簡単に許可が下りるはずもなく、仕方がないので孝允は西洋の学問に通じている人物を探し出し、造船術や西洋の兵法、英語など多方面の勉強を始めました。よくそう何人も先生が見つかったものです。

こうしたアグレッシブな姿勢はやがて藩にも認められ、30歳ごろには藩の中枢で意見を言える立場になっていました。
長州というと「外国ブッコロ!」なイメージが強いですが、西洋の知識を持っていた孝允や高杉晋作は「いやいや今の俺らじゃ無理でしょ。皆落ち着きなさいよ」と言っています。が、前者の声がデカかったので結局攘夷運動という名の因縁付けが行われた結果、見事返り討ちにあうという誰も得しない状況に陥りました。あーあ。

しかも、長州藩は朝廷とも幕府とも仲違いして征伐軍を向けられるという憂き目を見ます。第一次長州征伐の頃ですね。
孝允はその頃、「もうダメだこいつら」と諦めモードに入っていたようで、藩を離れて潜伏生活をしていました。

が、高杉晋作が「だから攘夷なんぞやるだけムダって言っただろうがこのアホ共!」ということで藩の中枢をひっくり返すと、返り咲いて薩長同盟を結んだり、第二次長州征伐では藩の去就を預かる一角として活躍します。

長州といえばこの御方・高杉晋作/Wikipediaより引用

長州といえばこの御方・高杉晋作/Wikipediaより引用

 

若い後輩たちをホイホイ訪ねて歩く

……とまあ、こんな感じでバタバタしながら明治政府へも入っていくのですが、バリバリ働いてた割に「身分の低い後輩の家にもいきなりお宅訪問していた」なんてエピソードも残っているのが面白いところです。
しかも仲が良かった人数名というのではなく、本当にどんな相手でも尋ねていくので、あらゆる意味で相手が困惑していたとか。

中には「うちは滅茶苦茶狭くて客間もないのに、いきなり木戸さんが来たので布団を庭に放り出してから上がってもらった」なんて人もいるほどです。
また、あるときは訪ねた先の家人が病気だと知るとすぐさま医者を紹介したりして、世話焼きな一面もありました。

何を考えていたのかよくわかりませんが、おそらくは人材探しと若者の実情把握の二つを兼ねていたのでしょうね。自分ももともと身分が低く、藩主に見出してもらっただけに「どこにどんなヤツがいるかわからんし、若いのに会っておいて損はない」と考えていたのかもしれません。

でも、この人岩倉使節団の一員でヨーロッパに出かけた時期もあったのに、どうやってそんな時間を作ってたんでしょうねえ。
デキる人は時間の使い方からして違うということでしょうか。うっ耳が痛い。

木戸松子(幾松)の波乱な生涯 木戸孝允のデキる美人妻は如何にして夫をたすけたか

木戸孝允・伊藤博文

前列右から2番目が木戸孝允(アニキ寺島進さんみたいすね)で後列右端が伊藤博文さん/Wikipediaより引用

長月 七紀・記

スポンサーリンク

参考:木戸孝允/wikipedia

 





1位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


2位 わろてんか主人公
吉本せい波乱の一生


3位 西郷隆盛49年の生涯!


4位 史実の真田幸村とは?


5位 最上義光 名将の証明


6位 ホントは熱い!徳川家康


7位 意外と優しい!? 織田信長さん


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?


注目 わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか毎日の感想レビュー

-西郷どん特集, その日、歴史が動いた, 幕末・維新
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.