甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川。
後の甲相駿三国同盟で知られる三家は、時には手を組み、時には争う、常に複雑な関係でしたが、天文15年(1546年)4月に一つの転換点を迎えます。
関東中の勢力を敵に回した北条が【河越城の戦い】に挑んだのです。
一説には1万vs8万ほどの戦力差だったというこの戦い。
寡兵にもかかわらず北条氏康や北条氏綱の働きで何倍もの大軍を退けるという鮮やかな勝利を得てしまいます。
北条やべぇ!ということで今川や武田はどう出るか――。
今週は砥石崩れまで行ってみましょー!
◆前話を読みたい!という方は以下のリンクからご覧ください
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相模の獅子・氏康が河越城で足利上杉ぶっ倒す!マンガ武田三代記19
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交渉人

◆後に今川家を滅亡に追いやった――ことで知られる今川氏真。
母とは、武田信玄の姉・定恵院です。
父・武田信虎で、母・大井の方という信玄の同母姉になりますね。
お見舞い

◆そもそも信玄が父の信虎を追放したのは、信虎がこの姉に会いに行くときを狙ってのことでしたね。
そして……。
姉の死

◆天文19年(1550年)6月に定恵院は亡くなりました。
享年32。
姉の死により両国の関係を途絶えさせることがないよう、信玄は後に今川義元の娘を嫡男・武田義信に迎えますが、その前に武田家は再び試練のときを迎えます。
信濃の村上義清との対決です!
侵攻再開

◆天文17年(1548年)2月、武田晴信(後の武田信玄)は信濃で村上義清と激突!
板垣信方や甘利虎泰という重臣中の重臣を死なせる大敗北を喫してしまいました。
このときは信玄自身も傷を負うほどの敗戦であり、湯治で治療にあたった――なんて話もあるほど。
再び、信濃へ進出してくるのは2年後、天文19年(1550年)7月のこととなります。
小笠原長時の林城を攻略すると、翌8月には、村上義清が小県郡の押さえとして築いた砥石城へ……。
砥石城

◆砥石城は、村上義清の本拠地である葛尾城の支城。
当然ながら距離的には遠くなく、現代の地図で徒歩22~23kmの距離です。
半日あれば十分に届くところに憎き義清がいたわけで……。
挟撃

◆難攻不落の砥石城に手こずった武田軍は周辺の国衆を取り込むなどして包囲を強めていました。
しかし、村上義清と対立していた高梨政頼が和睦して、今度は武田方の城を攻めかかるようになり、信玄もついに退却を余儀なくされ、撤退を始めると城兵が襲いかかってきます。
迎え撃ったのは横田備中守高松でした。
勇者を偲ぶ

◆この敗戦で、武田軍は実に1,000人ほど討死したと言います。
いわゆる【砥石崩れ】という、信玄二度目の敗戦。
その後しばらく武田軍は守勢にまわり、諸勢力との対峙に追われることとなりました。
敗因

◆そしてその守勢を打ち破るのが、真田昌幸の父であり、真田信繁(幸村)や真田信之の祖父として知られる真田幸隆(真田幸綱)だったのです。
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漫画:アニィ高橋
文:五十嵐利休
【参考】
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典 (3) 静岡県・愛知県・長野県・新潟県・富山県・石川県』(→amazon)
柴辻俊六/平山優/黒田基樹/丸島和洋/柴裕之/鈴木将典『武田氏家臣団人名辞典』(→amazon)
武田氏研究会『武田氏年表 (信虎・信玄・勝頼)』(→amazon)
平山優/株式会社サンニチ印刷『信虎・信玄・勝頼 武田三代』(→amazon)
ほか








