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清正と言えば、朝鮮出兵時に伝えられる虎退治の逸話/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 豊臣家

熊本城を築き、最期はナゾの死を遂げた加藤清正とは? 秀吉子飼い大名の中で圧倒的人気の理由

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当コーナーでは度々「同じ日に起きた出来事」を複数扱ってきましたが、本日はその中でも、【同じ人物の人生が同じ日に始まって終わった】という稀有な例をお話しましょう。

永禄五年(1562年)の6月24日は加藤清正が誕生した日です。そして、慶長十六年(1611年)の同日に死去しています。

旧暦の話ですからもちろんズレてはいるんですが、神様の遊び心というか何というか。いわゆる”秀吉子飼い”、”賤ヶ岳の七本槍”などなど戦国時代好きには有名な人ですので今更という気もしますが、ざっくり清正の生涯を見ていきましょう。

加藤清正

立派なお髭が特徴の一つ♪ 加藤清正/Wikipediaより引用

 

12才頃から秀吉の下で働き始める

彼は現在の愛知県名古屋市中村区に生まれました。秀吉の出生地といわれているあたりと極めて近いところです。その場所には現在「秀吉清正記念館」なんてあるくらいです。
それもそのはず、秀吉の母と清正の母は従姉妹同士でした(もっと遠縁という説もあります)。25歳ほど離れていますので、当初はまんま”おじさんと甥っ子”という関係だったんでしょうね。

そして秀吉が出世し、身辺に人手が必要になった頃召し出されて仕え始めます。このとき清正は12歳くらいですから、まさに”子飼い”なわけですね。中国攻めや山崎の戦い、そして秀吉が関白になってからも主な戦いには必ず従軍しており、心から秀吉についていこうとしていたことがうかがえます。(その甘えからか朝鮮出兵では辛辣な文書を残しているようですが)

清正といえば熊本城の築城でも有名ですが、その熊本に来た理由は「秀吉様はいずれ唐を攻めるらしいから、先鋒でお役に立つためにはより大陸に近いところにいなければ!」というものだったそうです。

熊本城

現代人も驚きの石垣で有名な熊本城/Wikipediaより引用

石田三成と不仲だった”武断派”であることから脳筋と思われがちですけれど、実はこういった先々のことを考えて行動する人でもあったんですね。築城を得意としていたのも、先々のことを予測するという考え方が役に立ったからなのかもしれません。

 

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豊臣と徳川の狭間で悩まされ・・・

そして予想通り唐入り(朝鮮の役)でも出兵を命じられ、戦でも築城でも大活躍しました。
終盤にはかなり苦しい戦いもしましたが、餓死者病死者が頻発していた中で無事帰ってこられたのはさすが。それどころかセロリを持って帰ってきたらしいんですけども、よほどのお気に入りだったんでしょうか。

しかし、帰国・秀吉死去の後は秀吉子飼いという立場で苦しめられることになります。

関が原の戦いでは朝鮮の役の最中にもめていっそう不仲になった石田三成憎さで徳川方につきましたが、その後豊臣家との間で板ばさみになってしまったからです。

家康の命で名古屋城を建てたときには「なんでタヌキジジイの息子(尾張藩初代・徳川義直のこと)の城を建ててやんなきゃいけないんだよ!」と愚痴る福島正則に対し「イヤなら国元に帰って戦支度でもしてこい」と諭したらしいので、もう豊臣家に実権が戻らないことはわかっていたのでしょうけども・・・。

それでもできるだけ豊臣家の家格を高いままにしてもらうべく、家康と秀頼の間に立って会見を促したりしていました。

清正と言えば、朝鮮出兵時に伝えられる虎退治の逸話/Wikipediaより引用

清正と言えば、朝鮮出兵時に伝えられる虎退治の逸話/Wikipediaより引用

 

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今なお消えぬ毒殺説 依然としてハッキリしない

しかし、そのとき皮肉な運命に襲われます。秀頼と家康の会見に立ち会った帰りの船で清正は突如発病し、帰らぬ人になってしまった……といわれています。

あまりにも突然だったため遺言や辞世の句もなく、毒殺説が今も消えていません。そもそも家康と秀頼の会見は京都・二条城で行われていたので、瀕死の病人がそんな大移動はできないでしょうしね。

死因となった病気には腎虚や梅毒(良い子は18歳になってからググりましょうね)、はたまたハンセン病など諸説あり、こちらもやはりはっきりしていないというのがまた何とも。

まあ死因についてはさておき、清正は秀吉子飼いの中では特に内政が得意な人でしたので、地元民からは今も昔も絶大な人気を誇っています。熊本城築城や土木工事をする際には農閑期を狙い、きちんと賃金を払うなど、民衆に気を遣っていた点が大きいようです。
清正は農民の出ではありませんが、身分的には近かったので「農民を一年中こっちの都合につきあわせてはいけない」ということがわかっていたのでしょう。現代の政治家やお役人にも、下々の事情を理解した上で増税や改革を行ってほしいものです。

特に堤防や河川の改修については現代でもそのまま使われているほどで、彼がいかに先進的な高い技術を持っていて、うまく工事を進めたかがわかります。
清正が熊本にいたのはほんの15年ほどですが、仕事ができて思いやりもあるとなれば、今も「清正公」(せいしょこ)さんと呼ばれ親しまれているのも頷けます。

伏見大地震のときには真っ先に秀吉の下へ駆けつけたという、かなり出来た話も/Wikipediaより引用

伏見大地震のときには真っ先に秀吉の下へ駆けつけたという、かなり出来た話も/Wikipediaより引用

 

どうして大河ドラマの主人公になれないの? 

これだけ功績もあり、地元から慕われている人ですのでやっぱり?大河誘致運動もされているのですが、未だ実現しそうにないのはやっぱりお隣の国とのアレコレのせいですかねえ。

清正の場合、朝鮮半島を縦断して現在のロシア領まで行ってますし、エピソードが多すぎて端折れないからダメなんでしょうか。ウィキペディア先生でも生涯の1/3くらい行数割いてますしね。

当事者(地)のひとつ・蔚山広域市からは撮影許可が出たそうなので、何かうまいこと折り合いがついて実現するといいのですが。

そのときは虎退治の逸話をCGでどのように表現するのか、楽しみにしておりますよー。

加藤清正朝鮮出兵経路

随分と奥深くまで・・・/Wikipediaより引用

長月 七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
http://www.geocities.jp/kiyomasa_taiga_nhk/





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