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その日、歴史が動いた 今川家

戦国最高の坊主軍師・太原雪斎とは? 武田信玄・北条氏康との甲相駿三国同盟を締結させる

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戦国時代における坊主軍師の代表?  

教育は大切です。
特に小さい頃”誰にどんな内容をどのように教わったか”というのは教わったほうの人生に大きく影響します。
何もわからない子供に何かを教えることは、悪い言い方をすれば洗脳に近いわけですから。例の国の「将軍様を崇めなさい!」とかね。

まあそこまでではなくても、好き嫌いであるとか固定観念というのは、意外なほど幼少期の経験や教育からきていることが多いものです。
といってもただ単にガリ勉すればいいというものではなく、いろいろなことをわけ隔てなく、子供が面白いと思うように教えるのが良いのではないかと思いますけども。

”授業”が楽しかったかどうかはわかりませんが、戦国時代にもそうした良いお師匠様は何人かいました。
本日はそのうちの一人、皆さんお馴染み?のあのお坊さんのお話です。

 

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まだ4歳だった今川義元の教育係へ 

弘治元年(1555年)閏10月10日、太原雪斎が亡くなりました。今川義元のお師匠様です。
今川家の軍師的な役割でしたが、本職はお坊さん。ということは本来殺生をしてはいけないはずですが、義元の母・寿桂尼(じゅけいに)と並んで今川家の両輪にも等しい敏腕ぶりだったので、生臭坊主のイメージは少ないのではないでしょうか。

では、なぜ出家の身でそんな血生臭い役を果たすことになったのでしょう?

彼の人生は、義元と深く結びついています。
雪斎26歳のときに義元が彼のいたお寺に入ったのですけども、この時点での義元は五男だったので、家督相続はまずありえないと思われていました。となるとお兄さんである次期当主に仕えるか、よその家へ養子に行くか、出家するかしか道はありません。

そしていずれの道を選ぶにせよ、学問は必須。当時は今のような学校制度はありませんから、しっかり勉強するにはお寺へ入るのが一番でした。ついでに身の振り方も決めてしまおうというつもりだったのが、哀れ義元は4歳で頭を丸めることが決定してしまいます。

そのときから雪斎は義元の教育係を務めることになりました。

今川義元/Wikipediaより引用

今川義元/Wikipediaより引用

年齢差としてはまさに親子同然ですから、義元はおそらく実の父とも思って雪斎から学んだことでしょう。

一緒に上洛して京都のお寺で学んでいたこともあるくらいなので、性格的な相性はかなり良かったものと思われます。
どちらかが嫌がっていたらそれらしき逸話が残っているでしょうしね。

この間、雪斎は「息子の教育だけじゃなくてウチで働いてくれんか」と義元の父からお誘いを受けているのですが、当時は断っていたそうです。
後々義元にはついてきたことを考えると、多分親父さんとは馬が合わなかったんでしょうね。このときは「殺生なんてとんでもない!」と考えていたのかもしれませんが。

 

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まるでドラマや映画 父と兄が二人同時に死亡

そんなこんなで微笑ましい修学旅行(仮)を終えて帰ってきた二人に、衝撃的なニュースが届きます。

「義元様のお父上が亡くなりました」
「まあ、もう歳だししょうがないな」
「あと、義元様のお兄さんが二人同時に亡くなりました」
「「……ゑ?」」
「ですから、義元様の(ry」

めっちゃ端折りましたけどホントにこんな感じだから仕方ない。

こうなるとお家騒動が起きるのはテンプレ通り。
三番目のお兄さんと義元の間でお決まりの血で血を洗う内乱が起きました。これを”花倉の乱”といいますが、綺麗な名前のくせに経緯がものすごくややこしいので今回は省略しますね。

こじれた割に年内で決着がついてるあたり何ともいえませんが、事実は小説より奇なりということでしょうか。

そして雪斎の的確な助言もあって勝利を収めることができた義元は、還俗して今川家に戻ります。そして感謝と信頼を込めて雪斎を城に向かえ、政治的にも軍事的にも重用しました。

ここではあっさり応じているあたり、やっぱりトーチャンの誘い方がまずかったんじゃゲフンゲフン。

 

武田、北条と同盟を結び 西へ進軍

その後の雪斎は義元の期待通り、いや期待以上の働きを見せました。

主なものだけでも山ほどあるのですが、中でもスゴイのは外交関連。トーチャンのせいでこじれていた武田家との関係を改善すべく、義元の正室を武田から迎え、さらに京都で作った人脈を生かし、信玄(このときは家督相続前で”晴信”)に公家の娘(三条夫人)を紹介して同盟を結ぶまでに至りました。さらにこれが発展して北条家が加わり、例の舌を噛みそうな名前の同盟”甲相駿三国同盟”ができます。

これ考えたのがお坊さんだっていうのがもうね。世俗の事情に通じてないと仏法は理解できないってことなんでしょうか。
それとも殺生を避ける=戦を避ける=大規模な同盟を組む、って発想になったんですかね。

また、戦場でも抜群の活躍をみせます。
信長のトーチャン・織田信秀に勝つわ、同じく信長のニーチャン・信広を人質に取るわと「アンタ本当に坊主か?」とツッコむ気すら起きないほどです。ツッコむけど。

さらに「信広さん返す代わりに、そっちに行ってる松平の坊ちゃんを寄こしてくれませんかね^^」と交渉、見事成功させました。
この坊ちゃんが後の徳川家康です。狸にも子供時代はあったんやからなぁ。

 

今川仮名目録や商業政策などまさに八面六臂

そのため「雪斎は家康のお師匠様でもある」と言われることがあるのですが、上記の通り雪斎はあっちこっちで忙しくしていたので、直接教える機会があったかというと怪しい気もします。

この多忙の中お寺も開いているので、雪斎の弟子や書付けなどを通じて家康が学んだということはあったかもしれませんが。
後に義元の息子・今川氏真が雪斎が住職をやっていたお寺へ行ったりしていますし、雪斎の弟子にもそれなりにキレる人はいたでしょうからね。

他にも今川仮名目録(今川家領内の法律)に追記したり、商業政策を整えたりとまさに八面六臂の大活躍。更には2017大河ドラマ井伊直虎の井伊家を傘下に収める政策を進めたのも義元と雪斎が今川家をリードしてからのことですね。

雪斎が義元へ書き残したものの中に「本当によくできた人は大層な名前なんてなくてもすごいんだから、称号をもらっているというだけで恐れ入る必要はない」という考えが書かれているのですけども、こうした合理的な考え方があったからこそ、多方面で才能を生かしきることができたのかもしれません。

そういう意味では、信長と気が合ったかもしれませんね。時代と情勢的に友好関係を築くのは難しかったでしょうが、そんな経緯も見てみたい気がします。

 

長月 七紀・記

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参考:太原雪斎/Wikipedia

 

 





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