多くの方が竹中半兵衛や黒田官兵衛を挙げるのではないでしょうか。
史実を鑑みれば、日本史に軍師というポジションはないよね……となってしまいますが、それでもやっぱり頭の良い側近や参謀はシビれるもの。
こうした軍師的存在は、なにも武将だけでなく、特に外交面で重宝された僧侶も数多くいました。
弘治元年(1555年)閏10月10日に亡くなった太原雪斎もその代表的存在。
今川義元を支え「海道一の弓取り」と呼ばれるまでに躍進させた、戦国時代No.1候補の参謀僧侶でしょう。
僧侶といえば他にも安国寺恵瓊(毛利家)や南光坊天海(徳川家)、板部岡江雪斎(北条家)がおりますが、今回は太原雪斎に注目です。
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太原雪斎 義元の教育係として呼び出され
太原雪斎は明応五年(1496年)、今川家臣・庵原氏のもとに生まれました。
幼き頃より優れた頭脳を持ち、複数の名門寺院で修行を重ね、そのまま平和な時代でしたら名僧となっていたかもしれません。
しかし、時は戦国真っ最中。
大永二年(1522年)、雪斎は今川氏親(義元の父)に駿河へ呼ばれます。
当時、九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗っていた雪斎は、氏親五男・今川義元(4才)の教育係に任ぜられたのです。
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正室の生まれとはいえ、五男である義元の家督相続は、まずありえないと思われていました。
となると、お兄さんである次期当主に仕えるか、よその家へ養子に行くか、出家するかしか道はありません。
いずれの道を選ぶにせよ、学問は必須。当時は今のような学校制度はありませんから、しっかり勉強するにはお寺へ入るのが一番でした。
そのため義元は4歳で頭を丸めることが決定してしまったのです。
親子同然の二人は相性よかった?
かくして義元の教育係を務めることになった雪斎ですが……。
二人の年齢差はまさに親子同然ですから、義元はおそらく実の父とも思って雪斎から学んだことでしょう。
一緒に上洛して京都のお寺で学んでいたこともあるくらいなので、性格的な相性はかなり良かったものと思われます。どちらかが嫌がっていたらそれらしき逸話が残っているでしょうしね。
この間、雪斎は「息子の教育だけじゃなくてウチで働いてくれないか?」と義元の父からお誘いを受けているのですが、当時は断っていたそうです。
そんなこんなで微笑ましい修学旅行(仮)を終えて帰ってきた二人に、天文五年(1535年)、衝撃的なニュースが届きます。
「義元様のお父上が亡くなりました」
「まぁ、もう歳だししょうがないな」
「あと、義元様のお兄さんが二人同時に亡くなりました」
「……ゑ?」
「……ゑ?」
花倉の乱をわずか2週間で鎮圧
こうなるとお家騒動が起きるのはテンプレ通り。
義元に跡継ぎの話が舞い込んだところで、もう一人の兄・玄広恵探(げんこうえたん)が相続を主張。程なくして家督争いが勃発します。
【花倉の乱(はなくらのらん)】といい、義元と雪斎は約2週間という早さで鎮圧に成功しました。
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僧侶の雪斎に槍働きの記録はありません。
ゆえに合戦での具体的な戦功も記されておりません。
が、武田家の『甲陽軍鑑』に「崇孚なき義元では上手くことを運べない」とまで記されるほどですから、参謀として大いに貢献したことは間違いないでしょう。
雪斎の的確な助言もあって勝利を収めることができた義元は、還俗して今川家に戻ります。
そして感謝と信頼を込めて雪斎を城に向かえ、政治的にも軍事的にも重用。
その後の雪斎は義元の期待通り、いや期待以上の働きを見せました。
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