こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【太原雪斎】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
北条との戦いを終え西の三河へ侵攻すると……
東に北条。
北に武田。
南に大海。
西に松平(後の徳川)。
とりわけ東部・北部を強敵に囲まれていた今川家は、度重なる周辺争いに忙殺され、国土拡大の機を逸しておりました。
義元に代替わりしてからは仇敵だった武田と手を組み、逆に、以前は昵懇の間柄だった北条と本格的に敵対。
【河東の乱】という戦が勃発し、駿河での勢力が弱まりかねないところです。
あくまで仮説ですが、花倉の乱では北条が反義元の立場であり、それを機に両国が戦争状態へ突入していったと見られます。
このエリアは、長いこと北条、武田、今川で争ったり手を組んだり、状況次第で攻め込まれかねない――そんな関係だったんですね。
残念ながら河東の乱で敗れてしまった義元は、北条方に同エリアの支配権を奪わてしまいます。
が、それでおとなしくしている義元&雪斎のコンビではありません。
北条には敗北しましたが、戦い自体が終息すると、今度は強敵との正面対決を避けて、西の三河(東三河地域)へ侵攻。
【今橋城の戦い】を経て支配権を確立するのです。
さらに続けて西へ進もうとしたところで、立ちはだかったのが織田信秀でした。
立ちはだかったのが尾張の信秀
織田信長の父としても知られる織田信秀。
尾張国の一家臣に過ぎなかった立場から急激に勢力を伸ばし、同国の大部分を手中に収めていたヤリ手でした。
信秀は、有力国衆であった水野信元を味方につけると、当時、今川家の傘下にあった松平広忠にプレッシャーをかけるなどして、果敢に戦を仕掛けてきていたのです。
そこで問題となったのが人質でした。
松平家から今川家へ送られる予定だった竹千代(後の徳川家康)が織田家に奪われ、非常に複雑な状況に陥っていくのです。
※竹千代は「最初から織田家へ送られていた」という説が最近は注目されていますが、ここでは定説の「奪われた」という前提で進めます
かくして天文17年(1548年)に【小豆坂の戦い】が勃発。
信秀を破った今川軍としては一安心……とはなりませんでした。
天文18年(1549年)、突如、松平広忠が亡くなってしまったのです。
竹千代を奪還! 三河の主導権を手にする
広忠の生涯・死因については以下の記事に譲りまして。
謎の死を遂げた家康の父・松平広忠~織田と今川に挟まれた苦悩の24年を振り返る
続きを見る
今川義元や太原雪斎にとっては非常に切羽詰まった状況になってしまいます。
というのも織田家に竹千代を奪われたままでは、三河の支配権を織田に主張される恐れがあったからです。
【現状】
今川(駿河・遠江)
松平(三河)
vs
水野(三河)
織田(尾張)
という構図が
【最悪の未来】
今川(駿河・遠江)
vs
松平(三河)
水野(三河)
織田(尾張)
となりかねないんですね。
慌てた義元は、まず松平家の本拠地である岡崎城へ配下の武将を派遣。
松平家臣団を押さえた上で、太原雪斎自らが織田家の安祥城へ攻め込みました。戦いには松平家臣団の岡崎衆も参加しており、当主候補の竹千代を奪い返してやろう、という気力に充実していたのでしょう。
城将だった織田信広を生け捕りにすると、程なくして
織田信広――竹千代
という人質交換が行われ、無事に当主の確保に成功します。
信広のその後については、以下の記事を御参照ください。
信長の兄・織田信広は家督を継げずに謀反を画策?それでも信長に重用された理由
続きを見る
いずれにせよこの一連の流れは、太原雪斎のこの上ない功績の一つでもあります。
三河の平定においては、雪斎が現地の武士に所領を安堵する書状も残されているなど、全面的に関わっていたことが見て取れます。
人質にしていた徳川家康の教育係も務めたと言いますから、政治軍事だけでなく外交においても欠かせない存在だったのでしょう。
が、真に雪斎の「らしさ」を見せるのはこの後の展開でしょう。
【甲相駿三国同盟】の締結です。
※続きは【次のページへ】をclick!