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【太原雪斎】
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今川は尾張へ 武田は信濃へ 北条は関東へ
戦国ファンにはお馴染みのこの同盟。
「今川義元―北条氏康―武田信玄」の間で、彼らの嫡男と姫による婚姻関係を成立させたものです。
三国同盟は、
・今川は尾張へ侵攻
・武田は信濃へ侵攻
・北条は関東へ侵攻
という互いの利益に合致しており、それぞれの国力充実に大きく寄与しました。
そして一説には、この甲相駿三国同盟を立案したのが太原雪斎とされます。
ドラマや漫画などではお馴染みですよね。
今川義元・武田信玄・北条氏康が一堂に会して腹を割る――いわゆる【善徳寺の会盟】として描かれがちな名シーン。
ただ、これは史実では「なかった」というのが定説です。
実際のところは三国同時に実施されたわけではなく、立場的には武田が中心となり、
武田=北条
武田=今川
からの
北条=今川
という流れだったようです。
確かにそう考えた方が自然ですが、そのアイデアに太原雪斎が関わっていたとすれば、やはり相当なキレ者だったに違いありません。
今川仮名目録や商業政策などでも八面六臂
他にも今川仮名目録(今川家領内の法律)に追記したり、商業政策を整えたり。
まさに八面六臂の大活躍。
義元が「海道一の弓取り(東海道で一番の武将)」とされるのも、一方で「黒衣の宰相」と称された太原雪斎の頭脳があったからこそなんですね。
それだけに今川としても雪斎の死はあまりに大きいものでした。
弘治元年(1555年)閏10月に60で死去。
その約5年後の【桶狭間の戦い】で、義元が織田信長に討ち取られたことはあまりにも有名です。
雪斎が存命でしたら、全く異なる結果だったでしょう。
歴史でそれを言っても仕方ないとはいえ、少しばかり考えてみたくなってしまう。太原雪斎にはそんな魅力があるのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会『戦国僧侶列伝(星海社新書)』(→amazon)