太原雪斎

太原雪斎が開いた静岡県の臨済寺/wikipediaより引用

今川家

義元を支えた黒衣の宰相「太原雪斎」武田や北条と渡り合い今川を躍進させる

2024/10/08

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今川は尾張へ 武田は信濃へ 北条は関東へ

戦国ファンにはお馴染みのこの同盟。

「今川義元―北条氏康―武田信玄」の間で、彼らの嫡男と姫による婚姻関係を成立させたものです。

北条氏康/wikipediaより引用

三国同盟は、

・今川は尾張へ侵攻

・武田は信濃へ侵攻

・北条は関東へ侵攻

という互いの利益に合致しており、それぞれの国力充実に大きく寄与しました。

そして一説には、この甲相駿三国同盟を立案したのが太原雪斎とされます。

ドラマや漫画などではお馴染みですよね。

今川義元・武田信玄・北条氏康が一堂に会して腹を割る――いわゆる【善徳寺の会盟】として描かれがちな名シーン。

ただ、これは史実では「なかった」というのが定説です。

実際のところは三国同時に実施されたわけではなく、立場的には武田が中心となり、

武田=北条
武田=今川
からの
北条=今川

という流れだったようです。

確かにそう考えた方が自然ですが、そのアイデアに太原雪斎が関わっていたとすれば、やはり相当なキレ者だったに違いありません。

 


今川仮名目録や商業政策などでも八面六臂

他にも今川仮名目録(今川家領内の法律)に追記したり、商業政策を整えたり。

まさに八面六臂の大活躍。

義元が「海道一の弓取り(東海道で一番の武将)」とされるのも、一方で「黒衣の宰相」と称された太原雪斎の頭脳があったからこそなんですね。

それだけに今川としても雪斎の死はあまりに大きいものでした。

弘治元年(1555年)閏10月に60で死去。

その約5年後の【桶狭間の戦い】で、義元が織田信長に討ち取られたことはあまりにも有名です。

雪斎が存命でしたら、全く異なる結果だったでしょう。

歴史でそれを言っても仕方ないとはいえ、少しばかり考えてみたくなってしまう。太原雪斎にはそんな魅力があるのではないでしょうか。

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【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会『戦国僧侶列伝(星海社新書)』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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