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その日、歴史が動いた 毛利家

月山冨田城の戦い――毛利元就が中国地方の雄・尼子氏と月山富田城を開城させる

更新日:

日本海側の大企業尼子氏が新興ベンチャー毛利元就に敗北

何をするにも押しと引きが肝心です。
恋愛や商談など、意外なほどいろいろな場面で必要になってくる感覚ですよね。
別の例え方をするとしたら、「不良が雨の日に子犬を拾っているのを見て『なんだいいヤツじゃん』と思った」だとか、「映画のジャイ○ンはきれいなジャ●アン」みたいなものでしょうか。
戦国時代でいえばもちろん戦の駆け引きにも通じてくるわけで。今回はそんなお話です。

永禄九年(1566年)11月28日、中国地方の雄・尼子家の本城だった月山冨田城(がっさんとだじょう)が開城しました。

地域の時点で何となくお気づきの方も多そうですが、お察しの通り降伏した相手は毛利元就です。このジーチャンホントやりおる。
とはいえ元就の若い頃、中国地方は「大内か尼子か」みたいな状況でしたので、さすがのジーチャンも一気にこの城を落とせたわけではありません。

毛利元就(絵 富永商太)

毛利元就(絵 富永商太)

 

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第一次月山冨田城の戦いで惨敗……大内についててもヤバイ

実は昔、元就はこの城を攻めたことがありました。

まだ大内家がボロボロになる前、ここから20年以上前の話です。第一次月山冨田城の戦いと呼ばれます。
その頃毛利家は大内家の傘下だったので、元就も一部将として攻め手に加わりました。

が、月山冨田城は別名「天空の城」と呼ばれたほどの難城で、しかも指揮を取るのが人望を失いつつあった大内義隆ではうまくいくはずがありません。
どうでもいいですが、竹田城といい月山冨田城といい、中国地方には一体いくつラピュ○があるんですかね。というか誰が言い出したんだこのフレーズ。

月山冨田城

退却時の追撃も容赦なく、若かりし頃の元就(ただし40代)もあわや討ち死にというところを、家臣が身代わりになってくれたおかげで助かったほどの激戦でした。
しかもこのとき助けてくれた渡辺通(とおる)という人、昔は元就ではなく弟の元綱を支持していた人だというのですからまた泣かせます。なんという主従愛。

元就がどう感じたかは定かではありませんが、このときのボロ負けっぷりで「大内についててもお先真っ暗じゃん。ワシの代のうちに何とかしないとウチ滅びる」と考えた彼は、謀略を巡らせて毛利家が生き残る道を作り始めました。

 

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もう一つのビッグカンパニー大内氏も厳島の戦いで撃破して波にのる

そして厳島の戦いでほぼ大内家に止めを刺した後、「尼子家もやっておかないとウチ生き残れない」と考え、今度は単独で月山冨田城にやってきたというわけです。

開戦は同年4月のこと。
三つある出入り口のそれぞれを元就、吉川元春小早川隆景が担当して攻めましたが、尼子家も地の利と忠実な家臣のおかげでしぶとく持ちこたえます。

第一次のときは大内家のほうが約三倍もの兵力を持っていながら敗れたほどですから、その堅牢さは並大抵のものではありません。
南東以外の三方は断崖絶壁、さらに南東方向も出入り口に門&壕つきで、地形や外側の構造だけでも城方が圧倒的に有利でした。

やはり力攻めでは無理と判断した元就は、4月下旬に一度兵を退いて体制を整えました。

再び攻め始めたのは9月。梅雨や台風シーズンを避けたことになりますね。旧暦ですから、稲の狩り入れが終わるかどうかといったタイミングでもあります。

状況を見て一番効果的な攻め方といえば、もちろん兵糧攻め。険しい地形であるということは、それだけ兵糧の調達が難しいということでもありますから、これは見事に功を奏しました。

この頃には非情も止むなしと考えたか、空腹に耐えかねた将士が降参してきても元就は一切認めず処刑しています。ジーチャンKOEEEEEE!
とはいえMINAGOROSHIはせず、後半では認めていたようですが。

尼子家でもただ手をこまねいていたわけではなく、忠実な家臣の一人が私財を投じてまで食料を運ばせていたのですが、それを「アイツ裏切ってるから食料運べてるんですよ!やっちまいましょう!!」と讒言されて尼子家当主・義久が誅殺してしまいました。
この状況でホントに敵に通じていたら、まどろっこしいことせずに義久をブッコロしていたと思うんですけどねえ。カワイソス。

他の城兵はといえば、いい人は処刑されるわメシは食えないわでもちろん士気はダダ下がり。

そして11月21日にとうとう降伏を決め、28日に義久その他尼子家の中心人物が出頭・幽閉されることになり、第二次月山冨田城の戦いは終わりました。
開城したときには、当初1万人ほどいた兵が300程度になっていたといいますから、直接の戦闘さほどでないといっても凄惨です。

 

中国を完全支配!

こうして元就は名実共に中国地方を統一し、以降は寄る年波も相まってこの8カ国を維持することに力を注ぎます。

既に長男の隆元は亡くなっており、その息子・輝元を後見していかなくてはいけませんでしたしね。輝元がもうちょっとデキる人だったら、この辺で隠居してたかもしれませんけども。

ちなみに元就が亡くなったとき、輝元は18歳でした。

多分ジーチャンの偉大さは充分わかる年頃だと思うんですけど、その結果がアレだよ!(´;ω;`)

この戦いで戦国武将としての尼子家は滅びましたが、実はまだ後日談があります。
長連龍レベルの執念で頑張った人がいたのです。その話もまたおいおい。

長月 七紀・記
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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/月山富田城の戦い

 





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