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フランス その日、歴史が動いた 女性

影のシンデレラストーリー!フランスの太陽王ルイ14世と秘密結婚したマントノン公爵夫人とは

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ある程度歴史に詳しくなってくると、「マイナーな人物も面白いな」という感覚も身についてきますよね。
もちろん、歴史に名が残っているからには何かの分野で革新的なことをした人だとか、権力者の周辺の人なのですけども。
本日はその一人、「西洋版大奥」ともいえそうなフランス宮廷で、穏やかながらもしたたかに生き抜いたとある女性のお話です。
1719年(日本では江戸時代・享保四年)の4月15日、ルイ14世の妻・マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェが亡くなりました。
称号がまどろっこしい上に舌を噛みそうな名前の方ですが、これは彼女の来歴や立場によるものです。
通常こういった場合は「○○夫人」のほうで呼ぶことが多いのですけれども、本日は主役のこの方だけ「フランソワーズ」という実名のほうで呼ばせていただきますね。
世界史って同じ名前の人多すぎてややこしいですから(´・ω・`) 基本的に聖書とか先祖の名前を使うから仕方ないんですけどね。

マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ (ピエール・ミニャール画、1694年頃)Wikipediaより

お父さんが牢獄入りというすごい経歴

フランソワーズは1635年に生まれたといわれていますが、出生当時の状況はよくわかっていません。後の栄達振りを嫉んだ人があることないこと言ったり、当時父親のコンスタンがお縄になってしまっていたせいで、記録がはっきりしていないようです。
なぜか宗教関連のことだけわかっていまして、父方がユグノー(プロテスタント)、母方がカトリックというイヤな予感ぷんぷんの家庭でした。
が、信仰の路線が違いながらも結婚したような両親ですから、そのことが原因でケンカになったとかいうことはないようです。頭いいなあ。
やがて父が出所し、家族揃ってカリブ海のマルティニーク島へ移りました。ここは諸々の(地元民にとっては大迷惑な)ヨーロッパ人のドンパチの後、フランス領になっていたからです。
かつてコロンブスに「最も美しい島」と呼ばれたほどの場所だったのですが、資源が少ないことや現地の人々とヨーロッパ人との対立があり、平和とは言いがたいところでした。
コンスタンはマルティニーク近くの島の知事ということになっていましたが、何の手違いか給料がきちんと出ず、一家揃って苦しい生活をしていたそうです。新天地とは程遠い場所だったわけですね。

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早々に両親を亡くすも、女性たちの支援で彼女の歴史は動いていく

コンスタンは一人フランスへ戻って地位を認めてもらおうとしましたが、これは失敗。
母に連れられてフランソワーズたちも2年後に帰国しましたが、直後に両親は相次いで他界するという最悪な状況になってしまいました。
帰国直後だったのは不幸中の幸いで、フランソワーズは伯母の元へ預けられることになります。ちなみにこのとき12歳でした。もしマルティニーク島で両親が亡くなっていたとしたら、全く違う人生を送って、歴史に名を残すこともなかったんでしょうね。

その伯母の家にはかつて世話になったことがあったため馴染みやすく、マルティニーク島時代よりは良い暮らしができたようです。
しかし、伯母の家の方針で女子修道院での教育・生活をするようになり、窮屈さを感じたこともありました。ここでも幸運なことに、修道女の一人・セレストに気に入られて良い教育を受けられたようです。

このように、フランソワーズの人生はたびたび同性の支援者に恵まれています。異性に好かれるより難しいことですが、それだけ彼女の人柄や聡明さに惹かれた人が多かったんでしょうね。

その後、ポール・スカロンという劇作家と知り合い、25歳という結構な年の差があったものの結婚しました。このため、一時期はスカロン夫人と呼ばれていたこともあります。
スカロンは既にリウマチを患っており、結婚生活はたった9年間で終わってしまうのですが、お互いに惹かれあっていたため穏やかな時間だったようです。
フランソワーズは夫の看病を積極的に行う他、夫を訪ねてくる芸術家やそのパトロン達と知り合う機会を得ました。
これが彼女の運命を大きく変えていきます。

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芸術家の夫と結婚したために貴族や王族らともパイプができて

スカロンが亡くなった後はルイ14世の母(王太后)アンヌ・ドートリッシュの意向で年金をもらっており、しばらくの間不自由ない生活を送ることができました。
が、その王太后が亡くなると年金が打ち切られ、徐々に苦しくなっていきます。
さらにフランスからポルトガルに嫁ぐことになっていた貴族の娘に同行させられそうになりました。同じヨーロッパとはいえ、言語も習慣も違う異国への移住はさぞ心細かったことでしょう。
しかしここで、スカロンを通じて知り合っていたルイ14世の愛人の一人・モンテスパン夫人が、この同行に待ったをかけてくれたため、フランソワーズはフランスに留まることを許されました。
モンテスパン夫人はルイ14世に頼んでフランソワーズの年金を復活させてくれ、さらに自分と王の間にできた子供の教育係として雇ってくれます。

太陽王ルイ14世と愛人の教育係に雇われたところ

太陽王ルイ14世(Wikipediaより)

庶子というのは実に難しい立場ですが、フランソワーズはどの子に対しても愛情深く教育し、子供達もよく彼女に懐きました。
その働きはルイ14世にも認められ、給料を上げてくれたそうです。
五年ほど勤めた後にパリ付近のマントノンという地域に城を買っているので、その頃にはもう生活の心配をする必要がないほどの財産を持っていたと思われます。太陽王太っ腹やな。

フランソワーズは王の庶子たちとここへ引っ越して引き続き教育・生活するようになり、ルイ14世から「マントノン公爵夫人」の称号をもらいました。もう立派に貴族の一員です。
が、このあたりからかつていろいろと便宜を図ってくれたモンテスパン夫人の嫉妬を買い、険悪な仲になってしまいました。

どんどん出生、ルイ14世からモーションかけられるも、王妃からは絶大な信頼!できすぎ君か!

といっても、モンテスパン夫人は元々王の寵愛を笠に着て奢り高ぶっていた節もあり、他の愛人達にも嫉妬したり牽制したりしていたので、フランソワーズが悪いというよりはなるべくしてなったというところでしょうね。
何せ、ルイ14世の正式な王妃であるマリー・テレーズ・ドートリッシュを蔑ろにしていたくらいですから。

私が正式な王妃よ!マリーテレズ(Wikipediaより)

しかし、ルイ14世はフランソワーズの働きをさらに評価してくれ、息子の妃、つまり王太子妃の第二女官長という重職を任せてくれます。
この辺からフランソワーズに「ユー、ミーの愛人になってくれよ!」(超訳)と迫ってもいたようですが、彼女はこの時点ではまだ応じませんでした。
その理由はわかりませんが、政治や経済、宗教などの話し相手にはなっていたということですから、まずは宮廷内に慣れようということだったのかもしれません。

こうなると王妃との仲がこじれてきそうなものですが、上記の通りモンテスパン夫人があまりにもひどかったため、そういったことはなかったようです。
むしろフランソワーズは「王妃様にも優しくしてあげないといけませんよ」とやんわりルイ14世を嗜め、扱いが良くなるよう努めてくれたため、王妃のほうでも「マントノン夫人が来てからは、今までにないほど良くしてもらっている」と喜んでいたとか。

そしてとうとう秘密の結婚

二人が直接会ったことがあるかどうかはこれまたわかりませんが、王の至近にいながら他の女性とうまくやれたというのは、相当頭も性格も良くなければできないことですよね。
その後王妃や他の愛人が宮廷やこの世を去ると、フランソワーズは王太子妃の第一女官長となり、その後ルイ14世と秘密結婚をしました。

これは後ろめたかったからではなく貴賎結婚だったからで、そのため公的な証明や記録はありません。
しかし、それまでの経緯や、フランソワーズが王の寝室にごく近い場所へ部屋を与えられたことで、歴史家の間でも事実と見なされているとか。

フランソワーズがどの程度政治的な影響力を持っていたのかは不明ですが、自身の経験からか「地位があってもお金がない」という子女のために聖ルイ王立学校という学校を作っています。校則制定など細かな点にも関わり、生徒達からも人気だったようです。
かつて育ててきた王の庶子達へも気遣いを忘れず、ルイ14世へ王族と貴族の間に新しい地位を作り、多少優遇するよう勧めていたとか。

王妃ではなくても王の妻という地位になればもっと偉そうにしてもおかしくないところなのに、フランソワーズには全くその傾向が見えません。
さらに、ルイ14世が亡くなる直前に身を引き、その後はサン=シールというヴェルサイユ近隣地域で年金をもらって暮らすようになりました。
既に80代になっており、宮廷内で暮らすにはいろいろと不都合になっていたと思われます。

80代のおばあちゃんになって訪れたのはなんとプーチン大統領?

が、引退後の彼女に思わぬ客が訪れたことがあります。
やたらと背の高い、人品卑しからぬ人物でしたが、フランソワーズには見覚えがありません。
同時期にヨーロッパへ遊学旅行をしに来ていた、ロシア皇帝・ピョートル1世です。
フランソワーズは「誰があなたをここへお通ししたのですか」と尋ねましたが、ピョートル1世は涼しい顔で「私は、フランスの注目すべきもの全てを見に来たのです」と答えたとか。
つまり、誰かがフランソワーズの功績をピョートル1世に語り、興味がわいたので会いに来たということですね。「隣の晩ごはん」かっ!(古い)
フランソワーズはそれを聞いて喜び、ピョートル1世も「良い話を聞けた」と言っていたそうなので、結果オーライですけども。
そうして国内外に「穏やかな賢夫人」として知られたフランソワーズは、ピョートル1世の来訪から4年後に88歳という長寿で亡くなりました。
棺は聖ルイ王立学校に設けられた教会へ埋葬され、穏やかな眠りにつく……はずだったのですが、亡くなってからの彼女は悲運の連続でした。
フランス革命の後に学校や教会が荒らされたとき、彼女の墓も暴かれ、身包みをはがされたといわれているのです。
このときは心ある士官の一人が遺体を取り戻して再び埋葬してくれたそうなのですが、も第二次世界大戦でフランスがドイツに占領されていた頃に再び荒らされたようです。
戦後になってフランスが自治を取り戻した際、敷地内から「マントノン夫人の遺骨」と書かれた箱が見つかり、再三埋葬されて今は落ち着けているようなのですが。

本人は何も悪くないのに、貴族だからというだけでお墓を暴かれて身包みはがされるというのは理不尽外の何物でもありませんね。
日本人……というか神道に「死・死体は穢れである」という概念がありますので、そういう潜在意識があるために余計そう思うのかもしれませんが。
世界史を見ていると「墓を暴いた」とか「死体を掘り起こして裁判をやり直した」なんて話が珍しくありませんし。
それを見越してか、とある単純勝つ恐ろしい方法で死後の安寧を確保した人もいたりするのですが……まあその話はまた後日致しましょう。

長月 七紀・記

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参考:マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ(wikipedia)





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