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「ユー、ミーの愛人になってくれよ!」
モンテスパン夫人は元々王の寵愛を笠に着て奢り高ぶっていた節もありまいした。
他の愛人達にも嫉妬したり牽制したりしていたので、マントノン夫人が悪いというよりはなるべくしてなったというところでしょうね。
なんせルイ14世の正式な王妃であるマリー・テレーズ・ドートリッシュを蔑ろにしていたくらいです。
ルイ14世はマントノン夫人の働きをさらに評価してくれ、息子の妃、つまり王太子妃の第二女官長という重職を任せてくれます。
この辺からマントノン夫人に「ユー、ミーの愛人になってくれよ!」(超訳)と迫ってもいたようですが、彼女はこの時点ではまだ応じません。
理由は不明ながら、政治や経済、宗教などの話し相手にはなっていたということですから、まずは宮廷内に慣れようということだったのかもしれません。
こうなると王妃との仲がこじれてきそうなものですが、上記の通りモンテスパン夫人があまりにもひどかったため、そういったことはなかったようです。
むしろマントノン夫人は「王妃様にも優しくしてあげないといけませんよ」とやんわりルイ14世を嗜め、扱いが良くなるよう努めてくれたとか。
実際、王妃のほうでも「マントノン夫人が来てからは、今までにないほど良くしてもらっている」と喜んでいたようです。
そしてとうとう秘密の結婚
二人が直接会ったことがあるかどうかはこれまたわかりません。
一つ言えるのは、アタマも性格も良かったということでしょう。
でなければ王の至近にいて、他の女性とうまくやれはしません。
その後、王妃や他の愛人が宮廷やこの世を去ると、マントノン夫人は王太子妃の第一女官長となり、ルイ14世と秘密結婚をしました。
これは後ろめたかったからではなく貴賎結婚だったからで、そのため公的な証明や記録はありません。
しかし、それまでの経緯や、マントノン夫人が王の寝室にごく近い場所へ部屋を与えられたことで、歴史家の間でも事実と見なされているとか。
マントノン夫人がどの程度政治的な影響力を持っていたのかは不明です。
自身の経験を踏まえてでしょうか。
「地位があってもお金がない」という子女のために聖ルイ王立学校という学校を作っています。校則制定など細かな点にも関わり、生徒達からも人気だったようです。
かつて育ててきた王の庶子達へも気遣いを忘れず、王族と貴族の間に新しい地位を作り、多少優遇するようルイ14世に勧めていたとか。
王妃ではなくても王の妻という地位になればもっと偉そうにしてもおかしくないところなのに、マントノン夫人には全くその傾向が見えません。
さらに、ルイ14世が亡くなる直前に身を引き、その後はサン=シールというヴェルサイユ近隣地域で年金をもらって暮らすようになりました。
既に80代になっており、宮廷内で暮らすにはいろいろと不都合になっていたと思われます。
訪れたのはなんとロシアの皇帝?
表舞台から引退後の彼女に、思わぬ客が訪れたことがあります。
やたらと背の高い、人品卑しからぬ人物でした。
マントノン夫人には見覚えがありません。
同時期にヨーロッパへ遊学旅行をしに来ていた、ロシアの偉大な皇帝・ピョートル1世でした。
マントノン夫人は「誰があなたをここへお通ししたのですか」と尋ねたところ、ピョートル1世は涼しい顔で「私は、フランスの注目すべきもの全てを見に来たのです」と答えたとか。
つまり、誰かがマントノン夫人の功績をピョートル1世に語り、興味がわいたので会いに来たということですね。
「隣の晩ごはん」かっ!(古い)
彼女もそれを聞いて喜び、ピョートル1世も「良い話を聞けた」と言っていたそうなので、結果オーライですね。
革命後、墓は暴かれ、身包みはがされ
かくして国内外に「穏やかな賢夫人」として知られたマントノン夫人は、ピョートル1世の来訪から4年後に88歳という長寿で亡くなります。
棺は聖ルイ王立学校に設けられた教会へ埋葬され、穏やかな眠りにつく……はずだったのですが、亡くなってからの彼女は悲運の連続でした。
フランス革命の後に学校や教会が荒らされたとき、彼女の墓も暴かれ、身包みをはがされたといわれているのです。
このときは心ある士官の一人が遺体を取り戻して再び埋葬してくれたそうなのですが、第二次世界大戦でフランスがドイツに占領されていた頃に再び荒らされたようです。
戦後になってフランスが自治を取り戻した際、敷地内から「マントノン夫人の遺骨」と書かれた箱が見つかり、再三埋葬されて今は落ち着けているようなのですが。
本人は何も悪くないのに、貴族だからというだけでお墓を暴かれて身包みはがされるというのは理不尽外の何物でもありませんね。
世界史を見ていると「墓を暴いた」とか「死体を掘り起こして裁判をやり直した」なんて話が珍しくありませんし。
それを見越してか。
とある単純かつ恐ろしい方法で死後の安寧を確保した人もいたりするのですが……まあその話はまた別の機会に。
長月 七紀・記
【参考】
マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ/wikipedia