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織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用

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織田家 その日、歴史が動いた

織田信孝はどこで間違えたのか? 天下人まであと一歩だった信長三男の人生

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三男・織田信孝の実力とは?

能力があっても必ずしも生かしきれるとは限らないのが世の中の厳しさというものですよね。
ないよりはあったほうがいいかと思いきや、中途半端に力があったがために悲劇に巻き込まれることもありますし。
本日はその一人だろうと思われる、超有名人物の息子の一人のお話です。

天正十一年(1583年)5月2日は、織田信長の三男・織田信孝(のぶたか)が自刃したといわれている日です。

4月29日説もあるんですが、今回はこの日として扱わせていただきますね。
清洲会議で三法師(後に織田秀信)の対抗馬とされたり、信長の息子の中では割とチラチラ名前が出てくる人なので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
が、この人の一生を見てみると「いいところでケチをつけられる」という星の元に生まれてきたような感があります。

イラスト:富永商太

 

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次男信雄とはほぼ同じ日に生まれ

一つめは、生まれたときのこと。実は信孝とすぐ上の兄・織田信雄は、生まれた順が逆だという説があるのです。
「生母の身分が低かったから信孝が三男にされた」とか「信長への報告が遅れたから(ry」ともいわれていますが、今のところ決定打になる記録はないようです。
もうこの時点で貧乏くじを引かされる運命になってるヨカーン。
まあそれはさておき、信長は三男坊を優遇も冷遇もせずに扱いました。
10歳のとき、信長が平定した伊勢の神戸(かんべ)家に半ば無理やり養子入りしたため、「神戸信孝」と書かれていることも多いですね。
さすがの信長も元服前の子供をよそにやるのは多少心配だったのか、傅役(いわゆる”じいや”)やその他の家臣はきっちりつけてくれました。

家臣たちの助力(と信長の七光り)もあって、信孝は順調に伊勢を治めることができました。検地をやったり、楽市楽座など父親が広めた制度を自国内でも採用し、さらに伊勢神宮への参拝客が来る宿場としての立場を存分に生かして国を富ませます。

元服は長兄・織田信信忠&次兄・織田信雄と同時の元亀三年(1572年)のこと。儀式は岐阜城で行われました。このとき信忠は17歳、信雄と信孝は14歳でした。信忠はやや遅めですが、他の二人はちょうど適齢という年頃ですね。
加冠(元服の際、大人になった証として烏帽子を被せること)の役目は柴田勝家が務めたといわれています。「鬼柴田」ともいわれる勝家ですが、幼いころから知っている主君の息子の成長した姿を見て、まぶたなり胸なりを熱くしていたかもしれませんね。信長はそういうのなさそうですけど。

その後、長島一向一揆で初陣を果たし、信長の主だった戦に次々と参戦しました。他にも22歳で調停との交渉役を任されたり、信長が本願寺と和解する際には先に大阪へ来て下準備をしたりしています。
血気にはやって怒られたこともありましたが、信長からの信頼は上々だったようですね。

おそらく順調に行けば、北畠家に入っていた信雄と神戸家の信孝で「毛利両川」ならぬ「織田両川」という状態になっていたのでしょう。
しかし、皆さんご存知の通りそうはいきませんでした。

 

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長宗我部攻めの総大将で本能寺の変を迎える

天正10年(1582年)には四国の長宗我部家攻めにあたる総大将を任され、5月11日から大坂に入り、丹羽長秀らと準備を始め、堺の港から四国へ向かおうとしたところまではよかったのですが……ここで本能寺の変が起きます。

京都から堺はわりと近いですから、「信長死す」の報は即座に届きました。が、信孝や織田家の重臣だけでなく、一般人にまで知れ渡ってしまったのでさあ大変。
ほとんどの兵が逃げてしまい、四国攻めどころか父の仇を討つ準備もできなくなってしまいました。

信孝はさぞ焦ったことでしょうが、ここで一念発起します。
「そうだ、俺と一緒に四国行くはずだったヤツ、確か光秀の娘婿だったじゃん。あいつブッコロそう」(超訳)と。
その娘婿とは大坂にいた津田信澄という人物で、かつて信長と家督を争った弟・信行の息子でした。信長にとっては甥っ子、信孝たち兄弟にとっては従兄弟にあたります。そして光秀の娘と結婚していました。

つまり、血筋からしても立場からしても、光秀に加担している可能性はそこそこ高かったわけです。まあ普通、こういうときは親類縁者で兵力を固めますからね。それを見事に裏切ったのが某H家のチート親子ですが。

そんなわけで「怪しいからブッコロ!」程度の理由で信澄は始末されてしまいました。
今のところ学者先生方の間では「信澄は無関係じゃね? 濡れ衣だよ多分(´・ω・`)」(超訳)という説が根強いようです。光秀の破れかぶれっぷりからしても、信澄が無実の可能性はかなり高そうです。
というか信澄が加担してたんなら、同時期に信孝をブッコロそうとしてたはずですよね。信忠を襲ってるんですから、織田家の跡継ぎを潰すという考えもあったはずですし。
この辺から二つめの貧乏くじ……といいたいところですが、むしろこの後はくじを引きなおすことすらできないような状況でした。
信澄をコロしたところで、光秀が京都を陣取っているのは変わりません。しかし直接殴り合うには兵が足りません。
そこに秀吉が見事中国大返しをキメて帰ってきたので、信孝はこれに加わって光秀と戦い、山崎で勝利を収めました。
後世から見ると「この時点で秀吉に加わったら臣下になるも同然じゃねーか」という気がしてきますが、多分当時の信孝は「サルの兵を使って俺が親父と兄貴の仇を取るんだ!!」くらいの考えだったんでしょうねえ。一応名目上は総大将だったんですけども。
めでたく光秀を討った後の清洲会議では、多分「父上の信頼からしても、実力からしても俺が次の当主間違いなし! 信雄? 誰それ?」みたいな感じだったでしょうね。

 

本能寺後は大活躍も清須会議で織田家をつぐことはできず転落、25歳で自刃

しかし、結果はこれまた皆さんご存知の通り、「信長様の孫である三法師様が当主!」ということになってしまったため、信孝も「あれ? 何かおかしくね?」と思い始めます。
そして秀吉に対抗する手立てを探り、勝家と手を結びました。

信孝は信忠に代わって岐阜城に入り、三法師を守り立てることになります。だからこそ一度は引き下がったのでしょう。
が、その年の内に何故か秀吉が武力をもって岐阜城を取り囲み、「三法師様を出せ!!」と脅しをかけてきました。昭和の不良もビックリなカツアゲぶりです。
まさかサルに脅されると思っていなかった信孝は言いなりにならざるを得ず、さらに母と娘を人質として差し出す羽目になります。
勝家との連絡は取り続けていたと思われますが、賤ヶ岳の戦いでは連携を取れず、今度は信雄によって岐阜城を包囲されてしまいました。
同時期に勝家自害の報も届き、頼れる者がいなくなった信孝は信雄に、そして秀吉に降伏します。
そして信雄と秀吉の命により、野間大坊(現・愛知県知多郡)で自害することになったのでした。
ここはかつて源頼朝の父・義朝が家臣のツテを頼って身を寄せたところ、裏切られて殺されたと言われている場所です。もちろん信孝も知っていました。

信孝はもうなす術がないと悟り、命令に従って命を絶ちます。享年25歳、運の悪すぎた人生でした。

※※※※※ここから当コーナー指折りのグロい話になるので、苦手な方は飛ばしてくださいNE※※※※※
このとき「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」という恨みの歌を残したといわれていますが、これは後世の創作の可能性が高いそうで。
いくら織田家に文学的な意味での才人があまりいないとはいえ、明らかに粗雑過ぎる歌ですし、この歌とセットになって語られる「内臓をつかみ出して掛け軸に投げつけた」というのも無理がありすぎます。
その掛け軸と自害時の短刀が非公開になっているため、余計信憑性が高くなってしまっているのでしょうけども。そもそも「腹を切ってから別の人が首を落とす」という切腹の作法から考えて、そんなことしなくても血はかなり出るはずですしねえ。

※※※※※グロのターン終了※※※※※
というか本当にコレが信孝の辞世なら、そんなあいまいな言い伝えではなくて自筆でどこかに書き付けるか、家臣が書き留めるとかしていそうですし。
そういう痕跡が全くなく、しかも庶民でもわかりやすそうな歌であるということは創作の可能性であるほうが高いですよね。
後世の人が信孝を哀れみ、その気持ちを酌んでこういった言い伝えを作ったのだとすれば、多少は慰めになったかもしれませんけども。

まあ、歌がホントかどうかはともかく、死んでも死にきれない恨みを秀吉に対して抱いていたのは確かでしょうね。
野間大坊には義朝の供養として木刀をお供えする人が多いそうですが、信孝のお墓は現在安養院という別のお寺になっているせいか、あまり訪れる人もいないようです。
信孝が好きだという方は、手を合わせると何か良いこともある……かも。

長月 七紀・記

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参考:国史大辞典 織田信孝/wikipedia

 





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