織田信孝

織田信孝(歌川国芳作)/wikipediaより引用

織田家

信長の三男・織田信孝が迎えた壮絶な最期がヤバい~秀吉に敗れ怨念の十字腹を

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「報いを待てや 羽柴筑前」

野間大坊は、かつて源頼朝の父・源義朝が家臣のツテを頼って身を寄せたところ、裏切られて殺されたと言われている場所です。

もちろん信孝も知っていました。

野間大坊の境内にある源義朝の墓/wikipediaより引用

そこで信孝は、もうこれ以上なす術がないと悟り、命令に従って命を絶つことになります。

凄まじい最期が伝わるのはこの後です。

信孝はまず腹を十字に切り裂き、なかから内蔵を取り出した上で、こんな辞世を詠んだというのです。

「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

【意訳】源義朝が部下に襲われて命を落としたようにここは主君が死ぬ場所。次はお前がそうなるのを待っているんだぞ、秀吉

腹を切った上に、豊臣秀吉に対して、こんな恨みの歌を残したと言われているのです。

まぁ、上京からして頷けるものがありますが、これはさすがに後世の創作の可能性が高いそうです。

いくら織田家に文学的な意味での才人があまりいないとはいえ、明らかに粗雑過ぎる歌ですし、この歌とセットになって語られる「内臓をつかみ出して掛け軸に投げつけた」というのも無理がありすぎます。

切腹は、そんなに簡単なものでもないのは、歴女医のまり先生もご指摘されています。

掛け軸と自害時の短刀が非公開になっているのが、事をミステリアスにしているんですね。

 

お墓は安養院という別のお寺にある

もしも本当に信孝の辞世なら、曖昧な言い伝えではなく、自筆でどこかに書き付けるか、家臣が書き留めているでしょう。

そういう痕跡が全くなく、しかも庶民でもわかりやすそうな歌であるということは、創作の可能性であるほうが高いですよね。

後世の人が信孝を哀れみ、その気持ちを酌んでこういった言い伝えを作ったのだとすれば、多少は慰めになったかもしれませんけども。

まあ、歌がホントかどうかはともかく、死んでも死にきれない恨みを秀吉に対して抱いていたのは確かでしょう。

野間大坊には義朝の供養として木刀をお供えする人が多いそうですが、信孝についてはあまり注目されていないようで。

できればご一緒に手を合わせて欲しい……そんな辛い最期でした。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
織田信孝/wikipedia

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