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【織田信孝】
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長宗我部攻めの総大将で本能寺を迎える
天正10年(1582年)に入り織田信孝は、四国の長宗我部家攻めで総大将を任され、5月11日から大坂入り。
丹羽長秀らと準備を始め、堺の港から四国へ向かおうとしました。
このタイミングで起きたのが【本能寺の変】です。
京都から堺はわりと近いですから「信長死す」の報は即座に届きました。
しかし、信孝や織田家の重臣だけでなく、一般人にまで知れ渡ってしまったのでさあ大変。
ほとんどの兵が逃げてしまい、四国攻めどころか父の仇である明智光秀を討つ準備もできなくなってしまいました。

明智光秀/wikipediaより引用
信孝はさぞ焦ったことでしょう。
しかし、ここで一念発起します。
「一緒に四国行くはずだった光秀の娘婿、このまま放置していたら危険じゃねぇか?」(超訳)
娘婿とは大坂にいた津田信澄であり、かつて信長と家督を争った弟・織田信勝(織田信行)の息子でした。
信長にとっては甥っ子ですね。つまり信孝たち兄弟にとっては従兄弟にあたります。
それだけなら殺す要因などはないのですが、困ったことに津田信澄は、明智光秀の娘と結婚していたのです。
要は、血筋からしても立場からしても、光秀に加担している可能性はそこそこ高かったわけです。
まあ普通、こういうときは親類縁者で兵力を固めますからね。
それを見事に裏切ったのが、細川藤孝(細川幽斎)と細川忠興の親子です(忠興の正室・細川ガラシャが明智光秀の娘)
秀吉に乗っかるカタチで光秀と対峙
そんなわけで「怪しいから討っておく!」程度の理由で津田信澄は始末されてしまいます。
今のところ学者先生方の間では
「信澄は無関係じゃね? 濡れ衣だよ多分……」(超訳)
という説が根強いようです。
計画的とはいえない光秀の行動からしても、信澄が無実の可能性はかなり高そうです。
というか信澄が加担していたならば、先に織田信孝に攻めかかっていたのではないでしょうか。
明智軍は本能寺と同時に織田信忠を襲っているのですから、できるだけ織田家の禍根は早めに始末しておきたいと考える場面です。
なんせ信澄を排除したところで、光秀が京都を陣取っているのは変わりません。
しかし信孝が直接明智へ襲いかかるには兵が足りませんでした。
そこに豊臣秀吉が毛利攻めから帰ってきたので、信孝はこれに加わって光秀と戦い、山崎の戦いで勝利を収めました。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)
後世から見ると「この時点で秀吉に加わったら臣下になるも同然では……」という気がしてきますが、当時の信孝は「秀吉の兵を使って仇を取るんだ!!」ぐらいの考えだったのかもしれません。
一応、名目上は総大将ではありました。
めでたく光秀を討った後は「父上の信頼からしても、実力からしても、次は俺の時代」ぐらいに思っていたのでは……。
そう、そこで開かれたのが後世でも知られる【清洲会議】でした。
清洲会議から賤ヶ岳の戦いへ
清洲会議は、これまで「織田家の跡継ぎを決める」という認識でよく語られてきました。
次男の織田信雄か、三男の織田信孝か?と揉めているところで、秀吉が「信長様の孫である三法師様が当主じゃ!」と出しゃばってきた、という展開ですね。

『絵本太閤記』に描かれた清洲会議のシーン/wikipediaより引用
しかしこれは後世のフィクションという見方が強く、実際は、
・跡継ぎは三法師で決まっている
・問題は誰がその名代を務めるか?
という内容だったとされます。
すでに織田家の家督は信長から織田信忠へ譲られており、三法師がその信忠の息子だったからです。
しかし現実的に三法師は幼く、誰の後ろ盾もなく強大な織田家当主が務まるわけがありません。
そこで三法師が成人するまでの名代が必要となり、「信勝にするか?それとも信孝か?」と清洲会議で話し合われたわけですが、スンナリとは決まらず、まずは信長の側近であった堀秀政に預けるという形で話は収まります。
信孝にしてみれば、モヤモヤとする決着。
誰一人としてこのまま平和に時が進むとは思っていなかったでしょう。調略の得意な秀吉は、そのまま
と、錚々たるメンバーを自軍に引き入れていきます。
信孝としては、重臣の一人である柴田勝家だけでも……とすがる思いだったでしょう。
そこで、どうしたか?
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