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【織田信孝】
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長宗我部攻めの総大将で本能寺を迎える
天正10年(1582年)――。
信孝は四国の長宗我部家攻めにあたる総大将を任され、5月11日から大坂入り。
丹羽長秀らと準備を始め、堺の港から四国へ向かおうとしたところまではよかったのです。
このタイミングで起きたのが【本能寺の変】でした。
京都から堺はわりと近いですから「信長死す」の報は即座に届きました。
しかし、信孝や織田家の重臣だけでなく、一般人にまで知れ渡ってしまったのでさあ大変。
ほとんどの兵が逃げてしまい、四国攻めどころか父の仇を討つ準備もできなくなってしまいました。
信孝はさぞ焦ったことでしょう。しかし、ここで一念発起します。
「そうだ、俺と一緒に四国行くはずだったヤツ、確か光秀の娘婿だったじゃん。あいつブッコロそう」(超訳)
その娘婿とは大坂にいた津田信澄という人物で、かつて信長と家督を争った弟・織田信勝(織田信行)の息子でした。
信長にとっては甥っ子ですね。つまり信孝たち兄弟にとっては従兄弟にあたります。
それだけなら殺す要因などはないのですが、困ったことに津田信澄は、明智光秀の娘と結婚していたのです。
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要は、血筋からしても立場からしても、光秀に加担している可能性はそこそこ高かったわけです。
まあ普通、こういうときは親類縁者で兵力を固めますからね。
それを見事に裏切ったのが、細川藤孝(細川幽斎)と細川忠興の親子です(忠興の正室・細川ガラシャが明智光秀の娘)
秀吉に乗っかるカタチで光秀と対峙
そんなわけで「怪しいからブッコロ!」程度の理由で信澄は始末されてしまいました。
今のところ学者先生方の間では
「信澄は無関係じゃね? 濡れ衣だよ多分……」(超訳)
という説が根強いようです。
光秀の破れかぶれっぷりからしても、信澄が無実の可能性はかなり高そうです。
というか信澄が加担してたんなら、同時期に信孝をブッコロそうとしてたはずですよね。
信忠を襲ってるんですから、織田家の跡継ぎを潰すという考えもあったはずですし。
この辺から二つめの貧乏くじ……といいたいところですが、むしろこの後はクジを引きなおすことすらできないような状況でした。
信澄を排除したところで、光秀が京都を陣取っているのは変わりません。
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しかし直接殴り合うには兵が足りません。
そこに豊臣秀吉が毛利攻めから帰ってきたので、信孝はこれに加わって光秀と戦い、山崎の戦いで勝利を収めました。
後世から見ると「この時点で秀吉に加わったら臣下になるも同然じゃねーか」という気がしてきます。
が、たぶん当時の信孝は「サルの兵を使って俺が親父と兄貴の仇を取るんだ!!」くらいの考えだったのかもしれません。
一応、名目上は総大将だったんですけども。
めでたく光秀を討った後の清洲会議では、たぶん「父上の信頼からしても、実力からしても俺が次の当主間違いなし! 信雄? 誰それ?」ぐらいの感じだったでしょう。
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しかし、結果はこれまたうまくいきません。
秀吉が前に出て「信長様の孫である三法師様が当主!」ということになってしまったため、信孝も「あれ? 何かおかしくね?」と思い始めます。
そして秀吉に対抗する手立てを探り、柴田勝家と手を結びました。
信孝は信忠に代わって岐阜城に入り、三法師を守り立てることになります。だからこそ一度は引き下がったのでしょう。
が、その年の内に何故か秀吉が武力をもって岐阜城を取り囲み、「三法師様を出せ!!」と脅しをかけてきました。
この時点での秀吉方は、
と、そうそうたるメンバー。
一方、信孝はこの時点で美濃を掌握しきれていなかったため、ここで秀吉と正面から対決することができません。さらに、母と娘を人質として差し出す羽目になります。
勝家との連絡は取り続けていたと思われますが、既にこのとき12月になっており、勝家からの援軍も期待できませんでした。
この結果を受けて、さらに秀吉方につく武将が増えていきます。
特に、斎藤利堯はこの直前まで「信孝の家老」という立ち位置だったため、事の深刻さがよくわかります。
翌天正十一年(1583年)の【賤ヶ岳の戦い】でも、信孝はうまく連携できず、勝家は自害。
信孝も、信雄によって岐阜城を包囲されてしまいました。
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秀吉の政治力・戦略の上手ぶりがよくわかりますよね。
同時期に勝家自害の報も届き、頼れる者がいなくなった信孝は、信雄そして秀吉に降伏することになります。
そして信雄と秀吉の命令により、野間大坊(現・愛知県知多郡)で自害することになったのでした。
実に凄まじい最期が伝わっています。
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