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その日、歴史が動いた キリスト教

宗教改革のマルティン・ルター 世間とキリスト教を引っ掻き回して迎えた意外な最期

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人間真面目が一番。とはいえ、あまりくそ真面目に考え続けると、かえって自分の首を絞めることにもなりかねません。
しかし、悩み苦しみ抜いた末に自分にとっての答えが生まれることもあります。
今回はその中でも、当時と後世の両方に多大な影響を与えたとある聖職者のお話です。

1483年(日本では戦国時代・文明十五年)11月10日、後々宗教改革の先導者となるマルティン・ルターが誕生しました。

教科書だと「ルターが95ヶ条の論題を出してプロテスタントが生まれました」という点だけで終ってしまっている気がしますので、本日はこの人の生涯とともにもうちょっと詳しく見ていきましょう。

いかにも意志の強そうなお顔をしてはりますなぁ/wikipediaより引用

 

草原で激しい雷雨に遭ったから聖職者を目指します!

ルターは、ドイツ中部のザクセン地方で鉱夫の父の元に生まれました。
父親は努力家かつ厳しい人で、父の希望に沿うように勉学に励み、13歳で実家から離れてドイツ各地を巡りながら勉強していきます。

父親は自分の跡を継ぐことを強く希望していましたが、ルターは22歳の時、とある草原で激しい雷雨に遭ったことから聖職者の道を目指します。

「キリストの祖母・聖アンナに助けを求めて助かったから」という、傍から聞けば「(゚Д゚)ハァ?」と聞き返したくなるような理由でした。

当然両親には大反対されました。が、ルターは親の許可なぞいらぬとばかりに大学を辞めて、修道会に入ります。

入会後は熱心に聖書を読み、敬虔な修道士になりながら、いざ司祭になってからは「祈っても心の平安が得られないこと」に対して不安を抱き始めます。大学で神学・哲学の授業を受け持ったりしても、やはり神を理解できない苦しみは続いていたようで。そりゃあ神様を一朝一夕に理解できたら、世の中の聖職者という仕事は成り立たないと思うのですが、彼には耐え難かったようです。

この辺の様子と後述のノリノリっぷりからして、「ルターは双極性障害だったのではないか?」とみる向きもあります。これは極端に気分が高ぶる状態と、極端に落ち込む状態を周期的に繰り返すというもので、現代でも悩んでいる人がたくさんいます。

父母の肖像画もありまして/wikipediaより引用

 

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「神を信じる人間は正しい」って普通では…

しかし、精神医学など皆無に等しい当時、薬や医師よりも彼を救ったのは、やはり信仰でした。しばらくの苦悶の後、「塔の体験」という転機を迎えます。

「ヴィッテンベルク大学・学生寮の塔内図書室でこの考えに至ったから」だそうで、「突然光が差したような感覚」とのことですが、こんな感じの表現はいろいろな宗教の聖職者がしていますよね。その共通性こそが神が存在する証明になるのかもしれません。

一言でまとめると「神を信じる人間は正しい」という結論になるようです。てか、それってキリスト教の基本教義じゃないんですかね……(´・ω・`)

何にせよ、こうしてルターは懊悩から解き放たれ、大学での講義や信徒からの告解を聞くというお勤めを、スッキリした気持ちで果たせるようになりました。他人の悩みを解決できるのは、かつて同等以上に悩み苦しんだ人だけですからね。

そんなとき、ドイツ国内で贖宥状(いわゆる免罪符)の乱用が始まります。

聖アウグスチノ修道会時代のルター/wikipediaより引用

 

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金で神様に救われるとはこれいかに?

免罪符とは、「これを買えば神に許されますよ!!」という、現代のネズミ講(古い?)にも似た行為で、教会が先導していたのですからお笑いです。カトリックって散々お金を汚いもの扱いする割に、いざとなると誰よりもがめつくないですか?

免罪符の場合は教会内での権力争いに勝つための賄賂の源だったのですから、どう解釈したところで汚いにも程があるんですけども。
少し時期はずれますが、同じ中世という時代区分に日本でも寺院の腐敗が進んでいたことには、何か運命じみたものを感じますね。どうせならいい方向でシンクロしてほしいものですが。

そもそも、そんな胡散臭いシステムに当時の人々が飛びついたのか。というと、当時のヨーロッパにおける社会不安が大きな要因になっています。
13世紀にはモンゴルの脅威にさらされ、14世紀になって下火になったと思えばペストの大流行で人口が激減。それでなくてもあっちこっちで戦争が起きているのですから、無力な人々がすがるものといえば神様と教会くらいしかなかったのです。

特に当時のドイツ=神聖ローマ帝国では、各地方領主と聖職者を兼ねていることが多かったので、免罪符はお偉方にとって格好の資金源になりました。
もちろん、教会の中でも「それで魂が救えるとかないわー、ドン引きだわー」(超訳)と考える人はおりながら、なにせ国のお偉いさんが作っているので、即座に止めることはできませんでした。

 

 

ルターは信仰と義侠心から、贖宥状を乱発するお偉いさんへ物申します。これが「95ヶ条の論題」です。

内容はともかく、95ヶ条もある手紙を送りつけられたら、かえって読む気がしなくなりそうなものですが、そういう気遣いはなかったんですかね。
実際、日本語訳を見ても「こことここまとめられそうじゃね?」「回りくどくてわかりづらいわ!」「箇条書きにする必要はどこに???」などなど、ツッコミたくなる点が山ほどあります。

ゆえに、いきなり送りつけられたとしても、悔い改める気になる前に、新手の呪術と勘違いしてゴミ箱に投げ込む人のほうが多いんじゃないでしょうか。
クリスチャンの方ならスラスラ読めて理解できるんですかね。スイマセン一応仏教徒なものでテヘペロ。

ともかく、送られた方は「俺の収入源潰す気かこの野郎! ローマに訴えてこらしめてやる!!」(意訳)と息巻きました。が、教皇庁も、そんな子供じみたケンカにいちいち本気を出すほどヒマではありません。

「自分たちで話し合って解決しなさい」

話し合いの場でルターはますます熱く語り、さらにときの教皇・レオ10世にも手紙を出しました。こちらの手紙の内容ははっきりわかりませんが、たぶん「論題」と似たような感じの長い手紙だったんでしょう。
日本人でくどくど長い手紙で有名な人といえば毛利元就ですけども、ちょっと対決させてみたいものです。判定するほうが疲れるから無理か。

しかし、ここで政治的な面から事態が動きます。

レオ10世(若いころの大滝秀治似?違うか)/wikipediaより引用

 

破門と警告されても屁の河童 市民の前でお達しを焼く

ルターは当時、ドイツの一地方であるザクセンというところの領主・フリードリヒ3世の庇護を受けていました。
この人は神聖ローマ帝国内でもかなり有力な人で、レオ10世にとっては味方につけておきたい人物でもあったのです。
となると、教皇としてもルターに手荒な真似はできません。たびたびルターに使者を送り、自説を引っ込めるよう穏便に諭します。一方、自らが正しいと確信している人間がそう簡単に意見を変えるはずがないというのは、古今東西おなじみの流れですね。

そんな感じで教皇のほうでも(#^ω^)ピキピキな感じになってきた頃、ルターに賛同する人々が現れ始めました。
勇気づけられたルターは、教皇から「いい加減にしないと破門するぞ!」と警告されても屁の河童。そのお達しを市民の前で焼いたりしています。相当の度胸ですよね。

この動きは神聖ローマ皇帝としても見過ごせませんでした。ただでさえまとまっているとは言いがたい神聖ローマ帝国が、これをきっかけに分裂してしまいかねい状況に陥ったからです。
そして帝国議会に召喚し、ルターに自説の撤回を求めるのです。

が、ルターは「惹かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」(※イメージです)という姿勢を崩しませんでした。

 

隠居生活で著作活動は進んだが……

こうなると帝国としても引っ込みはつきませんし、そもそも引っ込むつもりもありません。ルターに「帝国アハト刑」という処分にし、法的な権利や財産を全て奪ってしまいました。

本来この刑になると死人扱い=誰からも援助を受けられなくなるのですが、正式な判決を受ける前にルターはフリードリヒ3世のところへ逃げ込んでいたので、ヴァルトブルク城という城へかくまってもらうことができました。
ここでルターは、新約聖書のドイツ語訳を行っています。死人扱いになった分、かえって翻訳に集中できたかもしれませんね。

しかし、1年も経たないうちに、ルターの賛同者たちはいくつもの勢力に割れてしまいます。これを見過ごせなくなり、再び人々の前に姿を表して、「暴力はやめよ?(´・ω・`)」(※イメージです)と諭しながら、説教と著述を続けます。

また、41歳の時に15歳年下(!)の元修道女の女性と結婚し、司祭が結婚することを肯定しました。「結婚して欲望が静まるなら、むしろ結婚したほうがよくね?」という考えからのことです。

これはこれで屁理屈のような気もしますが、日本の僧侶は「女がダメ? よろしい、ならば男だ!」(超訳)という方向に行っているので、あまり他所様のことをアレコレ言えないですねぇ。まあどちらも、無関係の他人を巻き込まないという点はマシですが。

 

最期は故郷の町で穏やかに眠りについた

そんな感じで、ドイツの一般庶民たちを勇気づけていったルターですが、ある一点に置いて大きすぎる過失も犯しています。

ドイツ農民戦争です。

その辺のことは以前こちらの記事(過去記事:アウクスブルクの和議 学生を世界史アレルギーにさせるこの出来事をザックリ分解 【その日、歴史が動いた】)でお話しているので割愛しますが、それでも賛同者は減らず、むしろ増えていきました。

その後は旧約聖書のドイツ語訳や大学での講義を継続、1546年に故郷の町で穏やかに亡くなっています。

世の中に諸々の種を蒔いた人にしては、珍しく平穏な最期です。

これも神のご加護ってことなんですかね。

長月 七紀・記

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参考:マルティン・ルター/wikipedia

 

 





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