貴族にとって【都落ち】というのは、これ以上無い悲壮感が付き纏います。
光源氏は須磨で己の境遇を嘆き、菅原道真は死して祟りを招いたとされ、藤原純友は以下の記事のように……
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ちょっと違いますね。
時が流れて幕末維新――。
明治政府でもかなり重要なポジションについた公家の一人に三条実美(さねとみ)がいます。
明治24年(1891年)2月18日はその命日。
後に500円札にもなった幕末貴族の出世頭・岩倉具視よりも家格はずっと上で、公家の中でもエリートでした。
しかし、この三条実美は、幕末~明治維新の激しいうねりの中で【七卿落ち】という憂き目にも遭っています。
文久3年(1863年)の雨の中、都から追い出されたのです。
幕末といえば志士たちの激動の時代ですが、いったい貴族の間で何が起きていたのか?
公家ながら激しい日々を送った三条実美の生涯を振り返ってみましょう。
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元服前に当主となりエリート貴族の道を行く
三条実美は天保8年(1837年)、三条実万の三男として生まれました。
母は9代土佐藩主・山内豊策の娘・紀子。
兄・公睦の死により、安政元年(1854年)に若くして三条家を継ぎました。
まだ元服前でありながら、名門の当主となったのです。
三条家の当主となってからの生活はまずまず順調です。
安政2年(1855年)に18才で元服を果たすと、位階は従五位上に叙されて侍従。加茂社臨時祭では、舞人の役を止めました。
さらには翌安政3年(1856年)に、19才で右近衛権少将となり、貴族としては王道のエリート街道を歩みます。
しかし、そんな順風満帆な貴族生活も長くは続きませんでした。
嘉永6年(1853年)の黒船来航から始まる動乱の波は、京都まで及んできたのです。
若き尊攘のプリンス
安政5年(1858年)、日米修好通商条約の勅許を得るため、老中・堀田正睦らが京都へやって来ました。
徳川斉昭ら一橋派と通じる公卿たちは、堀田の工作に対して立ち塞がります。
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失意(というより呆れ果てた)堀田が、何の成果を得られないまま江戸に戻ると、今度は井伊直弼が勅許を得ずに条約を締結。
返す刀で【安政の大獄】を敢行し、一橋派に厳しい弾圧を加えます。
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その煽りを受けて、三条実美の父・実万も、辞官落飾処分を受けました。官職を奪われた上、出家させられたのですね。
このころから、実美も、政争の渦中へ巻き込まれてゆきます。
そもそも実美には、政治へ深く関わっていく素養や環境が整っておりました。
若かりし頃から彼の周囲には、著名な思想家がおりまして。
・家臣で尊皇攘夷志士の富田織部
・国学者の谷森種松(谷森善臣)
・漢学者で尊皇攘夷志士の池内大学(陶所)
彼らからの教育と父の無念さを踏まえ、実美は筋金入りの尊王攘夷派公家へと成長していったのです。
長州藩と行動をともにし、七卿落ち
文久2年(1862年)、三条実美は左近衛権中将、従三位、議奏加勢、ついで権中納言、議奏に出世。
トップエリートとなりました。
このころ京都は、混迷の極みにありました。
公武合体政策が実りつつあり、孝明天皇自身までもがその方向へと傾いていったのです。
この流れを、薩摩藩や会津藩も後押しします。
困ったのが、反幕尊攘の姿勢を取る長州藩です。
長州藩はますます先鋭化して、三条実美も長州藩に近い公家グループのリーダーとなりました。
主導権を握った長州藩と実美らは、積極的に動き始めます。
まずは公武合体派公家のリーダー・岩倉具視らを弾劾しようともくろみ、その意見書を関白・近衛忠煕に提出。
さらに幕府に対して、攘夷督促の勅使派遣の建言を行うことにしました。
勅使となった実美は、副使の姉小路公知と共に江戸へ。
警護は、実美とは姻戚にあたる土佐藩主・山内容堂(豊信)があたります
11月、実美らは江戸城にて勅書を交付すると、江戸城大広間の上段にあがりました。
勅使の姿は、幕府にとっては驚くべき異例のものでした。
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