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フランス その日、歴史が動いた ドイツ

独仏国境沿いにできたフランスの超要塞マジノ線 ドイツは正面突破をせずにアララララ……

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人類の歴史は戦争と技術の発展によって成り立っていますが、その過程において全てが一発で成功したわけではありません。
まさに「失敗は成功の母」というやつでしょう。

欲を言えばできるだけ人命が失われない形で発展してもらいたいもので……というのもまぁ人間の都合ではありますけども。
本日はそんな感じの「惜しい」お話の一つをご紹介しましょう。

1932年(昭和七年)1月7日は、アンドレ・マジノが亡くなった日です。

フランスの対ドイツ戦略「マジノ線」の提唱者であり、当時のフランス陸軍大臣を務めていた人ですね。
アンドレ自身、第一次世界大戦の激戦地・ヴェルダンで負傷しているため、ドイツへの警戒心は個人的にも強かったと思われます。

マジノ線・シェーネンブール要塞の入り口/wikipediaより引用

 

フランスの外人部隊はナポレオン戦争がきっかけ!?

そもそも、フランス・ドイツ(神聖ローマ帝国)はフランク王国が分割されてできたようなものです。陸続きですから、お互いに決して無視できない存在。他にもフランク王国を母体とする国はたくさんありますが、今回はめんd……本題にあまり関係ないので割愛しますね。

そして神聖ローマ帝国・フランス王国時代はぶつかり合うことがなかった……というか、両方とも自国内でのドンパチのほうが多かったですから当たり前かもしれません。

しかし、ナポレオン戦争で両国がやり合ってからは、世論や情勢上、お互いに「コイツ何とかしないとこっちがやられる」(超略)状態になって戦争が絶えず、領地の取り合いも続きます。
現在、この二国の国境地域で建築様式や食文化などが混在しているのはそのためです。

また、今もフランス軍の特徴として有名な「外人部隊」は、ナポレオン戦争時にフランス人兵士が足りなくなってしまったために作られたものでした。つまり、「臨時的にとはいえ、外国人に軍隊をやってもらわないとヤバイ状態」だったわけです。
さらにその後、別の戦争でもフランス人兵士が大勢亡くなったため、臨時が臨時でなくなり今に至ります。
なんせ第一次世界大戦時=ナポレオン戦争から100年経っても、フランスの人口はまだ回復しきっていませんでした。第二次世界大戦が始まった1940年時点でも、フランスの人口はずっと面積の小さいイギリスより少ないくらいですから、激減ぶりがわかろうというものです。

いかにも堅強そうな要塞でして/wikipediaより引用

 

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真正面からマジノ線につっこむドイツではなかった……

そんなわけで外人部隊の存在は重要になったわけですが、「兵力差をどうやって縮めるか」という問題はそれだけでは解決できませんでした。

そこで、ドイツの侵攻を食い止めるために考えだされたのがマジノ線。
ヴェルダンで要塞の価値が再認識されたこともあり、フランスは「国防のためには強固な防衛拠点を築くことが絶対不可欠」と考えました。
お偉いさん方の間で多少揉めたこともありましたが、当初の計画通りにマジノ線は強固な要塞線として作られ、国防の要と期待されていたのです。

しかし、ドイツから見れば「一番通りやすいところに、いかにも落としにくそうな要塞ができてしまった」わけですから、素直にマジノ線を突破しようとはしません。
以前、第一次世界大戦終盤(過去記事:第一次世界大戦の始まりと終わり ドイツ革命から見てみるとかなりスッキリな件 【その日、歴史が動いた】)の記事でお話しましたけれども、ドイツ軍は直接フランスへ侵攻するのではなく、ベルギーを強引に通過して攻めたのです。

フランスから見れば、背後を突かれる形でした。

ティオンヴィル要塞/wikipediaより引用

 

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「トラクター」という戦車の改良を進めていたドイツ

なぜフランスは背後を警戒していなかったのか? というとベルギーが中立国だった&ベルギーに手を出すとイギリスが参戦する条約があるから、ということの他に、もう一つ理由がありました。
ベルギーとフランスの間には、湿地と森林の組み合わさったような地勢のエリアがあり、「ここを自動車や戦車で超えるのは無理だろ」と考えられていたのです。事実、移動手段の主流が馬だった頃は、ここでの戦闘はあまり起きていません。

が、当時のドイツは「トラクター」と称する戦車の改良を進めており、馬では進めないような場所も難なく超えることができました。
マジノ線での防衛しか考えていなかったフランス軍は人員の再配置をする間もなく、あっという間にドイツ軍にパリを落とされてしまい、フランスは当分の間ドイツに占領されることになります。

ちなみに、ドイツが劣勢になった後、マジノ線の要塞線を使ったことがありました。
が、そのときには既にあらゆる面で要塞を活用できる状態ではなく、マジノ線は結果的にドイツのシュリーフェン・プラン同様、「発想は良かったが実用性はアレ」な戦略となってしまっています。残念。

とはいえ、上記の通り提案者のアンドレは建設完成前に亡くなっているので、アレっぷりを見ずに済んでよかった……といっておきましょう。

第二のヴェルダンにならなかったことも、犠牲者の数を考えれば幸運だったかもしれませんし、物は考えようということで。

アンドレ・マジノ氏。芸術家のダリに似てる?/wikipediaより引用

長月 七紀・記

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参考:マジノ線/wikipedia アンドレ・マジノ/wikipedia ナチス・ドイツのフランス侵攻/wikipedia

 





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