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その日、歴史が動いた ロシア

ロシア革命で追われた最後の皇帝・ニコライ2世 イパチェフ館の地下で銃殺される

更新日:

 

歴史をあれこれ調べていると、ときには現実であってほしくない事柄にも出くわしますよね。
心構えがない状態で【虐殺事件の写真】なんかが出てきた日にはもう……。読んでくださる方にトラウマを植え付けるのは本意ではないので、当コーナーでキッツい画像は原則取り扱いませんが、本日はそういった部類の中でも一際有名なあの事件に関するお話です。

1918年(大正七年)7月17日は、最後のロシア皇帝・ニコライ2世一家が処刑された日です。

近代史でも有数の悲劇として、そして後述するアナスタシア皇女生存説などで有名ですね。
王侯貴族が悲惨な目に遭うというだけなら珍しいことではありませんが、この件はなぜ人々に特別扱いされるようになったのでしょうか。
この辺のことは第一次世界大戦とロシアの国内事情が同時進行していて非常にややこしいので、先にいつもの超略を出しておきましょう。

【TOP画像】ニコライ二世/Wikipediaより引用

 

【10行でわかるかもしれない20世紀初頭のロシア】

第一次世界大戦勃発

東部戦線各所でロシア軍ボロ負け 国内で皇帝への不満が高まる

ラスプーチンの台頭と暗殺

二月革命(グレゴリオ暦では三月革命)で帝政崩壊

ケレンスキーによる臨時政府

十月革命(グレゴリオ暦では十一月革命)ボリシェヴィキ(後の共産党)が政権獲得

ブレスト=リトフスク条約でロシアが第一次世界大戦から離脱

白軍(反ボリシェヴィキ軍)vs赤軍(ボリシェヴィキ軍)によるロシア内戦開始

ニコライ2世一家処刑 ←今日ここ

ソビエト社会主義共和国連邦結成

ところどころ同時進行の部分もありますが、だいたいこんな感じです。

 

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二月革命によって退位 弟も帝位を拒否して終了

1914年からの第一次世界大戦で、帝政ロシアはかなりの損をしていました。

東部戦線で大敗北を喫して退却せざるを得なくなり、国内では食糧危機が起き……と、いいとこなしだったのです。
ニコライ2世は戦線視察などで兵や民衆をなだめようとしましたが、それ以前からたびたび反感を買うようなことをしてしまっていたため、あまり効果はありませんでした。

そして二月革命によって、ニコライ2世は退位に追い込まれます。

一度は弟のミハイルに帝位を譲ろうとしましたが、ミハイルが拒否したため、帝政自体がここで終わりを迎えることになりました。
教科書ではこれ以降ロマノフ家の人々に関する記述がなくなってしまうので、皇帝一家処刑がいつ頃のことなのかわかりづらいんですよね。

帝政が崩壊した後、ニコライ2世たちは臨時政府によって自由を奪われ、1917年の夏にはシベリア西部のトボリスクという町へ追放されました。当時の首都・サンクトペテルブルクからは自動車で37時間(!)、電車でも同じくらいかかるようなところです。しかもシベリア=内陸地ですから、海からの助けも見込めません。

十月革命の後は、トボリスクから車で7時間ほどの位置にあるこれまた内陸の町・エカテリンブルクへ移送されました。
ここが皇帝一家の最期の地となります。

 

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高い塀と鉄柵で覆われたイパチェフ館に監禁されて

エカテリンブルクでは、ニコライ・イパチェフという人物の屋敷が徴用され、皇帝一家の監禁に使われました。

イパチェフはいきなり追い出されて、別荘に移り住むハメになったそうです。可哀想に。

イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、窓も全てペンキで塗られ、外部との接触は完全に封鎖。ニコライ2世と皇后アレクサンドラ及び息子のアレクセイで一部屋、アナスタシアを含む四人の皇女で一部屋という、かつての生活とは何もかも違った環境を強いられます。

見張りの兵がつくのは仕方ないにしても、いつからか一家の貴重品を盗むなどの侮辱を加えるようになったとか。それについてニコライ2世が抗議しても、「囚人に人権はありましぇーんwww」(※イメージです)と言われておしまいだったといいますから、まさに生き地獄だったでしょう。

一方その頃、中央では動乱が続いていました。
「帝政じゃなくなったのに、ちっとも俺達の生活は楽にならないじゃないか! ボリシェヴィキなんてくそくらえ!」(超略)と考える人々が、ボリシェヴィキに対抗するために白軍を組織したのです。

「白」の由来ははっきりしませんが、ボリシェヴィキが赤を象徴にしたので、それに対抗する意味があるとかないとかいわれています。
ロシアのような寒い国だと、雪のイメージに繋がる白は「悪魔の色」とされることがあるので、ボリシェヴィキや共産党側が「俺達に逆らう奴らは悪魔だ!」という意味を込めて白軍と呼んだ……なんて説もありますね。

1918年のイパチェフ館/Wikipediaより引用

「白軍がニコライ2世たちを救出したらめんどくせーな」

白軍はおおむね共和制を推す人たちで、帝国時代のお偉いさんも参加していました。

このため、ボリシェヴィキは「白軍がニコライ2世たちを救出したらめんどくせーな」(※イメージです)と考えます。
それを防ぐためには、皇帝一家を再度別の場所へ移送するか、エカテリンブルクを死守するか、あるいは全員殺してしまうか、のどれかです。

そして、ボリシェヴィキにとって最も面倒がない最後の手段が選ばれ、ニコライ2世一家と使用人たちはイパチェフ館の地下で銃殺されてしまったのでした(地下室の画像をご覧になられたい方はコチラのページへ)。
処刑の様子と遺体の処理については、ソ連時代に「英雄的行為」とされており、実行犯たちが自ら語っていたため、かなり詳しいことがわかっています。が……あまりにも残酷なので、ここでは割愛します。

ニコライ2世は6人きょうだいで、革命当時は4人生存していたのですが、弟・ミハイルも同年3月に殺されていました。そのため、ロマノフ家男系の血筋はこの時点で絶えてしまっています。

当時のロシア皇帝一家で生き残ったのは、ニコライ2世から見て母のマリア皇太后、妹のクセニアとオリガの三人でした。
この三人も一度クリミア半島の町・ヤルタに幽閉されたのですが、マリア皇太后の姉でイギリス王太后のアレクサンドラが救出に動き、戦艦マールバラで亡命できたのです。
もしかすると、これによってニコライ2世たちは逃げ場のない内陸へ幽閉されたのかもしれません。

 

最も有名なアナスタシアの偽者アンナ・アンダーソン

さて、この事件が語り継がれるきっかけのもう一つ、末っ子のアナスタシア皇女生存説に話を移しましょう。

この説は、1920年にベルリンで見つかった、とある女性の発言からきています。彼女は自殺未遂で精神病院に運ばれたのですが、体に弾痕らしきものが多数見られたため、周囲が「もしかしたらアナスタシアが生きていて、ここまで逃げてきたのでは?」と言い始めました。
本人も「自分はロシアから逃げてきたアナスタシアだ」と言い始め、最終的にはロマノフ家の遺産に関する訴訟を起こすまでに至ります。

これが「アンナ・アンダーソン」と呼ばれている、最も有名なアナスタシアの偽者です。

現在ではDNA鑑定ではっきり否定されていますが、ロマノフ家の関係者から知らないことを知っているなどの理由から、数ある偽者の中でもかなりの支持を得ました。
また、ソ連政府が「ニコライ2世だけが処刑された」と発表していたことも一因になったと思われます。

アンナの正体は、1920年3月に失踪していたポーランド人のフランツィスカ・シャンツコフスカだといわれています。
彼女はベルリンの爆弾工場で働いていたところ、手榴弾の事故によって心身に重症を負い、精神が不安定になったまま行方不明になっていました。その数週間後に「自分はアナスタシアだ」と言い出したのではないか、というわけです。

フランツィスカ=アンナとアナスタシアは5歳も離れていますし、写真からしても「似ても似つかない」という表現がしっくりきます。
ロマノフ家の内部事情を知っていた件については解決しませんが……何ででしょうね。あてずっぽうで言ったことの中に、たまたま秘密と合致する部分があり、誇張されて広まった、とかでしょうか。
アンナはかなり話術に長けていたようですし、オレオレ詐欺みたいな誘導をすれば、周囲に思い込ませることもできたかもしれません。

アンナ・アンダーソン/Wikipediaより引用

アナスタシア・ニコラエヴナ/Wikipediaより引用

 

殺害現場の見学ツアーなども開催され、後に隠蔽のため壊される

皇帝一家の遺骨に関する調査が進み始めたのは、ソ連が崩壊した後、1994年のことです。あまりにひどく処分されていたため、全員分の遺骨が見つかったのは2007年になってからでした。
2009年には、ボリシェヴィキの犠牲になった他の人々と一緒に、皇帝一家の名誉が回復されています。

ちなみに、イパチェフは一家処刑の4日後に家を返してもらえたそうです。取り散らかったままだったそうですから、恐らく処刑に使われた部屋もそのままだったでしょう。
勝手に家を皇帝一家の処刑に使われた上、犯行現場として名前が残るなんて可哀想すぎますね。

イパチェフ館はその後博物館になり、殺害現場の見学ツアーなども開催。冷戦が終わりに向かい始めた頃、ソ連の残虐な行いを隠滅するために壊されました。
現在その場所には「血の上の教会」と呼ばれるものが建っていますが……事の経緯を知っていると、足を踏み入れたいとは思えない人のほうが多いんじゃないでしょうか。

皇帝一家の冥福を祈りたい方は、サンクトペテルブルクの首座使徒ペトル・パウェル大聖堂へ行くのがよろしいかと。
ここはピョートル大帝以降、代々のロシア皇帝の廟所でもありますし、サンクトペテルブルク自体が大観光都市ですし。

長月 七紀・記

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参考:ニコライ二世/Wikipedia アナスタシア・ニコラエヴナ/Wikipedia アンナ・アンダーソン/Wikipedia

 





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