1505年10月27日は、モスクワ大公・イヴァン3世(イヴァン大帝)が亡くなった日です。
つまりロシアの王様(に近い存在)ですが、当時の状況がよくわかってないとワケワカメな話になると思われますので、まずは11行でロシアの歴史をまとめてみましょう。

イヴァン3世(イヴァン大帝)/wikipediaより引用
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11行で何となくわかりそうなロシア史
ザックリといいまして、ロシア史は以下のような流れとなっております。
①現在のウクライナ・ベラルーシ・ロシア西部にスラヴ人が定住するようになる
↓
②9世紀あたりから小さな国がいくつかでき、自分たちを「ルーシ」と呼び始める
↓
③キリスト教(正教会)とキリル文字が伝わる
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④キエフ大公国を中心に一度まとまるがすぐに分裂
↓
⑤モンゴルに侵略され、その支配下になる
↓
⑥モスクワ大公国が台頭し、モンゴルの支配を脱する ←今日この辺
↓
⑦大動乱(大飢饉・対外戦争・皇帝不在の大混乱期)
↓
⑧ロマノフ朝(ロシア帝国)開始
↓
⑨ロシア革命
↓
⑩ソビエト連邦
↓
⑪ロシア連邦
だいたいこんな感じです。
モスクワがロシアの首都になったのは、モンゴルの支配下に置かれていたときから存在し、かつ「モンゴルの支配から脱したときの都」という歴史とプライドがあるからなんでしょうね。
その割に何度も焼け野原になってますけども。
モンゴルの支配下にありながら版図を広げていく
当時のロシアは
「全体的にモンゴルの支配下」
「その中で小さな国が複数ある」
という連邦制に近い状態でした。
定期的にモンゴルの首都まであいさつに行って、統治権を認めてもらう必要もあったので、朝貢とも近いですね。
その中でイヴァン3世は、妹を周辺国に嫁がせたり、侵略したり、保護国(という名の属国)化したりして版図を広げていきました。
もちろん全てがうまくいったわけではなく、妻の兄とはドンパチを繰り広げたこともあります。
また、冷酷な面もありました。
当時のロシア周辺では分割統治が基本となっていて、イヴァン3世が大公位を継いだときも、弟たちと領土を分けているのですが……弟のうち二人が跡継ぎなしに亡くなると、新たな領主を任命せず、領土を回収してしまったのです。
もう一人の弟からは反発されましたが、捕えて獄死させたといいます。こわい。
この間、最初の妻・マリヤを亡くし、1472年に最後の東ローマ(ビザンツ)皇帝コンスタンティノス11世の姪っ子・ソフィヤと再婚しています。
ソフィヤはローマに亡命して育ったため、ローマ教皇との繋がりもありました。
つまり、ときの教皇パウルス2世による
「正教会の土地をカトリックに改宗させてやるぜ。そうすりゃオスマン帝国をフルボッコできるしゲッヘッヘ」(超訳)
という狙いがあったわけです。
イタリアの先進的文化がモスクワにもたらされ
この時点では、既に東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされてしまっています。
なので、ローマ教皇とすれば一人(一国)でも味方を増やして、異教徒との戦いに備えたいと思うのも無理はありません。
「普通に同盟すりゃいいじゃん」という気もしますが、まあそこは中世のケンカっ早い価値観だから仕方がない。
が、モンゴルの支配下でもモスクワ大公国はロシア正教会の信仰を守り続けていたので、そううまくはいきませんでした。
モンゴル帝国が基本的に徴税・徴兵の他は現地に任せっぱなしだったからです。
何がどこでうまく働くかわからないものですね。
また、この結婚により、ロシアにとって思わぬメリットができました。
ソフィヤはローマに亡命して育ったため、イタリアの先進的な文化をモスクワにもたらしたのです。
ときのイタリアはルネサンス真っ盛りで、有名人以外にも建築家や技術者がたくさんいました。
イヴァン3世はそうした人々を呼んで、宮殿や教会などを新たに建てたり、改築させています。それまで城塞だったクレムリンが、宮殿になったのもこの時期です。
世界史的に重要な点としては、イヴァン3世はソフィヤとの結婚により「ツァーリ」を名乗るようになったことでしょうか。
ツァーリはカエサル=ローマ皇帝を語源とする言葉ですが、この時点では皇帝というより「王」や「地方領主」くらいの立ち位置でした。
イヴァン3世としては「皇帝を目指す」という意味合いを持っていたかもしれませんね。
西にリトアニア 東と南に大オルダ
大きな目標を掲げたところで、次は対外戦争です。
当時のモスクワ大公国は、西にリトアニア大公国、東&南にジョチ・ウルス(チンギス・ハーンの長男の国)系国家の大オルダという大敵に挟まれた状態でした。
イヴァン3世は現在のクリミア半島周辺にあったクリミア・ハン国と同盟を結び、両方の敵を順に攻略していくことにします。
特に大オルダは何度もモスクワに攻め込んできており、対策が急務。
1480年には大オルダが本格的な遠征をしてきたものの、イヴァン3世はモスクワの南方を流れるウグラ川で渡河を防ぎ、大オルダ軍を退却させています。
渡河戦が難しいのはどこの国でも同じですね。
この勝利は、モスクワ大公国だけでなくルーシ一体が「タタールのくびき」と呼ばれるモンゴルの支配から脱するきっかけとなりました。
イヴァン3世は対モンゴル外交もうまく利用しています。
ジョチ・ウルス系のもう一つの国であるカザン・ハン国で後継者争いが起き、負けたほうの皇子ムハンマド・アミーンがモスクワに逃げてきたことがありました。
これを好機と捉え、イヴァン3世は政権を作っていたハン・イルハム皇子を滅ぼして、ムハンマド・アミーンをハン(モンゴル系国家の王様のこと)の位につけたのです。
当然ムハンマド・アミーンは感謝感激雨あられなわけで、以降彼はイヴァン3世の同盟者となりました。
モスクワ大公国にとっては、東方の脅威がほぼなくなったことを意味します。
とはいえ、モンゴル諸国へのあいさつや贈り物はまだ続けていました。
せっかく敵が減ったところで、またケンカを売っては元も子もないからですからね。
ついにリトアニア大公国との戦争が勃発
こうして西方対策に集中できるようになったイヴァン3世は、いよいよリトアニア大公国と対決していきます。
当時のリトアニア大公国はポーランド王とリトアニア大公を同じ人が兼任しており、強国の一つ。
しかし、当時の王様が亡くなったとき、一時的にこの二つが別の王子に引き継がれ、同君連合が解消されています。
イヴァン3世はこの機に乗じてモスクワ西方の町・ヴャジマを占領、リトアニア大公国から「全ルーシの君主」という称号を認めさせるほか、領地も割譲させました。
イヴァン3世の娘エレナとリトアニア大公アレクサンデルの結婚も行われているため、この時点では荒っぽい方法以外も考えていたようです。
しかし、ここでリトアニア大公国内の事情が両国の関係に影響してくることになります。
リトアニア大公国は元々正教徒の国だったのですが、徐々にカトリック勢力が強まってきていました。
そのため、リトアニアの貴族の中には「それだったら、モスクワ大公国についたほうがいいんじゃね? あっち正教徒だし」(意訳)と考える者が出てきはじめ、実際に臣従する者も現れたのです。
宗教問題はいつの時代も火種になるもの。
こうして、再び【モスクワ大公国vsリトアニア大公国】の戦争が始まります。
ポーランド王を継いだ兄が亡くなったため、アレクサンデルはポーランド王位を兼任しており、再びポーランドとリトアニアは連合王国に。
そのためポーランド軍の助けも得て、リトアニア大公国は防衛に成功します。
イヴァン3世も完全征服を狙っているわけではなく、自分たちの力を示して勢力を強めるための戦争でしたので、三年ほどで再度休戦条約が結ばれました。
そして、またしてもモスクワ大公国は広大な領地を得ます。
次男と孫の間で後継者争いが起きてしまい
しかし、領土拡大によってノヴゴロドなど北欧に面する地域も手に入れたため、今度はスウェーデンやドイツ騎士団とも対立。
その対策として、現在のエストニア国境あたりに、自らの名を冠したイヴァンゴロドという城塞都市を作っています。
後に経済的にも発展し、以降、ロシアとスウェーデンの間で争奪戦の舞台となっていきました。
まあ、豊かなところが狙われるのはいつの時代のどこの国でも同じですよね。
住民にとってはたまったものではないですが。
こうして着実にロシアの勢力を強めていったイヴァン3世も、後継者問題には悩まされました。
かつて隣国の後継者問題に手を突っ込んで勢力を拡大した人に同じことが起こるとは、皮肉なものです。
原因は、長男で同名のイヴァンが早くに亡くなっていたことででした。
これまたどこの国でもよくある話ですね。
イヴァン3世の次男ヴァシーリーと、孫(長男の息子)のドミトリーの間で争いが起き、双方の母親や宗教問題、そして貴族たちの派閥が絡んで、この争いは長引いてしまうのです。
最終的にはヴァシーリーが勝ちました。
イヴァン3世の存命中にカタがついたのでまあマシなほうかもしれません。
ヴァシーリーは父の死後、「ヴァシーリー3世」として即位します。
彼の息子があの”雷帝”イヴァン4世です。
物騒な手をためらわないのはジーちゃん譲りというかなんというか。
長月 七紀・記
【参考】
栗生沢猛夫『図説 ロシアの歴史 (ふくろうの本)』(→amazon)
イヴァン3世/wikipedia
タタールのくびき/wikipedia