イギリス その日、歴史が動いた

なぜアイルランドとイギリスは不仲? 日本人には理解しにくいお国事情をスッキリ解説

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今回は、とある国同士の因縁に注目。

1922年(大正十一年)12月6日は、英愛条約によりアイルランド自由国が成立した日です。

独立でもなく、現在の国名ともちょっと違うあたりが何とも不穏な空気を醸し出しますね。

これにはアイルランドとイギリス(イングランド)の、一筋縄ではいかない関係が影響しています。

本日はこの日に至るまでのアイルランドの歴史とともに、イギリスとの関係をみていきましょう。

 

4世紀にキリスト教 8世紀にはバイキング そして12世紀から……

アイルランドという土地は、他からの干渉を多く受けてきた国といえます。
自発的に関係を持とうとしたよりも、本人たちが望まないような形で影響されてきたケースが多いのです。

4世紀ごろにキリスト教が伝わったときも、8世紀ごろにバイキングがやってきたときも、アイルランドの人々が自ら望んだわけではありませんでした。

その辺までは他のヨーロッパの国々と似たようなものですが、12世紀からイングランドが大きく干渉してきたことにより、歴史的な因縁ができていきます。
正確には、「バイキングの末裔であるノルマン人がイングランドを征服し、次の獲物としてアイルランドに目をつけた」というところです。

しかし、侵攻が成功してアイルランドで勢力を持つノルマン人が出てくると、イングランドの王様・ヘンリー2世は心配になります。

「こんなに近いところで、強い国ができたらひとたまりもない」と。勝手なものです。

そこで、禍根を断つためにアイルランドのノルマン人へ攻め込みました。もう何が何やら。

 

ヘンリー8世の登場により事態はにわかに動き出す

攻め込まれたアイルランド軍は、ダブリン(現在のアイルランドの首都)以外のところでは勝ち続けることができました。

先に居着いていたノルマン人たちが、うまくアイルランドに溶け込んでいたからです。
となると、軍としてのまとまりが生まれるのも当然の話。

一方で、イングランド軍の兵からすれば「王様は心配してるみたいだけど、わざわざ戦争なんてしなくてもいいじゃないか。
俺達は家族と一緒に穏やかな暮らしがしたいのに」と思うわけです。

これでは、戦意に雲泥の差が生まれるわけですよね。

かといってアイルランドの全面勝利で終了! とは決してならず、結局は、ときのイングランド王・ヘンリー2世が直々にやってきた後は徐々にイングランドの支配下に組み込まれていくようになりました。

ヘンリー2世/wikipediaより引用

そうこうするうちイングランドでも内戦が多発したことによって、以降200年ほど両国の関係は小康状態になります。

まあ、その間に「ノルマン人がアイルランドに土着しすぎるのはマズイ。地元民との結婚とかアレコレ禁止しよう」という法律ができたりして、国内は穏やかとはいいきれなかったのですが。

次に話がキナ臭くなるのは、ヘンリー8世の時代です。
あの奥さんを殺しまくった王様であり、エリザベス1世の父でもあります。

ヘンリー8世/wikipediaより引用

ヘンリー8世は、世継ぎの男の子を得るために、無理やりカトリックを捨てて英国国教会を作りました。

これは、敬虔なカトリックであるアイルランド人や、支配者層のノルマン人にとって許せないこと。反乱を煽る聖職者も表れ、ものの見事に武力衝突があっちこっちで起こります。

数十年後、エリザベス1世が「アイルランドの土地をぶん取ってイングランド人に与える」というカツアゲにしか見えない政策をとったこともあり、この時代にアイルランド人のイングランドに対する印象は悪くなってしまいます。

さらに、エリザベス1世の次の代、いとこのジェイムズ6世の頃には、これ以下にはならないだろうというところまでいきました。

 

チャールズ1世を支持したばかりに結果60万人が亡くなる

ジェイムズ6世はスコットランドの出身です。

彼は王位に就くやいなや、
「スコットランド人にアイルランドを支配させてうまくいけば、スコットランド・イングランド・アイルランド全てが俺のものになってウマー!」(超訳)
と考え、実行してしまったのです。

これもまた、アイルランド人にとっては許しがたいことでした。
せっかく王様が変わって土地が戻ってくると思ったのに、また別のヤツらがかすめとっていこうとしているのですから。

しかしイングランドで清教徒革命が起きたとき、アイルランドは大きな失敗をしてしまいます。

この革命をざっくり言うと、「イングランド国王チャールズ1世が清教徒(ピューリタン・キリスト教の中でも潔癖な宗旨を持つ)を弾圧した反動で起きた」ものです。

このとき、アイルランド人達はチャールズ1世を支持していました。
チャールズ1世の妃がカトリックだったので、「俺達のことも少しは理解してくれるだろう」と思っていたのです。

が、チャールズ1世を公開処刑した革命軍は、返す刀でアイルランド人を虐殺しはじめます。

病や飢饉も平行して起こり、実に60万人ものアイルランド人が犠牲となりました。

これでは、アイルランド人がイングランド人、そしてその後継者であるイギリス人に良い印象を持てないのも当たり前の話です。

アイルランド人も黙って支配されているばかりではなく、フランス革命に習おうとしたこともありましたが、あえなく失敗。
イングランドがイギリスになった後は懐柔策として、イギリス議会にアイルランド人議員の席ももうけられましたが、それだけでは腹の虫が収まるわけもありません。

 

ジャガイモ飢饉が起こっても小麦の輸出を継続させ

そんなところで、もう一度大きな火種……というか、爆弾が投げ入れられます。

1840年代の【ジャガイモ飢饉】。
歴史の世界でアイルランドの名前を出すとき、クロムウェルによる虐殺事件と並んで欠かすことができない、もう一つの悲劇です。

飢饉自体はジャガイモの病気が原因なので、偶然起きたといえなくもないのですが……それに対するイギリス政府の対策がひどすぎました。

「ジャガイモが食べられなくても、ヨーロッパなら小麦でパンが作れるじゃん。っていうか主食はパンでしょ?」と思いますよね。

しかし、この時期のアイルランドは小麦を作っても、イギリスに輸出する(させられる)ばかりで、自分たちはジャガイモを主食としていました。
その主食が食べられなくなっても、イギリス政府は小麦の輸出をやめさせないばかりか、何ら救済策を講じなかったのです。

これ以前の飢饉では、アイルランド内で小麦の流通が図られたというのに、です。

体力のない者から次々と倒れ、少しでも余裕のある者は新天地を求めて海を渡った結果、アイルランドの人口は300万人近く減ってしまいました。

うち死者が80万~100万、移民として他の国へ行った人が200万くらいと考えられています。
あまりにも被害が大きすぎて、正確な数字がわからないのです。
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