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【アイルランドとイギリスはなぜ不仲なのか】
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カトリックのイングランド王妃をアテにした結果
さらに、エリザベス1世の次の代、いとこのジェイムズ6世の頃には「もうこれ以下はないだろう」というところまで進んでしまいます。
ジェイムズ6世はスコットランドの出身でした。
彼は王位に就くやいなや
「スコットランド人にアイルランドを支配させてうまくいけば、スコットランド・イングランド・アイルランド全てが俺のものになってオイシイ!」
と考え、あろうことか実行してしまったのです。
むろんアイルランド人にとっては許しがたいこと。
せっかく王様が変わって土地が戻ってくると思ったのに、また別のヤツらが掠め取っていこうとしているのですから黙ってはおけない。
しかしイングランドで清教徒革命が起きたとき、アイルランドは大きな失敗をやらかしてしまいます。
この革命をざっくり言うと「イングランド国王チャールズ1世が清教徒(ピューリタン・キリスト教の中でも潔癖な宗旨を持つ)を弾圧した反動で起きた」ものです。
このとき、アイルランド人達はチャールズ1世を支持していました。
チャールズ1世の妃がカトリックだったので「俺達のことも少しは理解してくれるだろう」と思っていたのです。
しかし、チャールズ1世を公開処刑した革命軍は、返す刀でアイルランド人を虐殺し始めました。
司令官はオリバー・クロムウェル。
運の悪いことに病や飢饉も同時に起こり、実に60万人ものアイルランド人が犠牲になったと言います。
にわかには想像し難い人数ですが、現代日本で言うと千葉県船橋市の人口が約61万人ですので、”中核都市の人口が丸ごとなくなった”計算になります。ムチャクチャですよね。
これでは、アイルランド人がイングランド人、そしてその後継者である現代のイギリス人に良い印象を持てないのも当たり前の話です。
アイルランド人も黙って支配されているばかりではなく、フランス革命に倣おうとしたこともありました。
しかし、あえなく失敗。
イングランドがイギリスになった後は懐柔策として、イギリス議会にアイルランド人議員の席が用意されるも、それだけで腹の虫が収まるわけもありませんね。
アイルランド史上最悪の災害・ジャガイモ飢饉
そんなところで、もう一度大きな火種……というか爆弾が炸裂します。
1840年代の【ジャガイモ飢饉】です。
歴史の世界でアイルランドの名前を出すとき、クロムウェルによる虐殺事件と並んで欠かすことができない、もう一つの悲劇がこちら。
当時、アイルランド人の主食だったジャガイモが病気で不作となり、深刻な飢饉に襲われたのです。
何より酷かったのがイギリス政府の対策でした。
もしかしたら読者の皆さんの中には「ジャガイモが食べられなくても、ヨーロッパだったら小麦でパンが作れるのでは?」と思われるかもしれません。
しかしこの時期のアイルランドは、小麦を作ってもイギリスに輸出する(させられる)ばかりで、自分たちの主食は基本的にジャガイモ。
その主食が不作で食べられなくなったならば、小麦の輸出をストップして、国内の足りない地域へ回せばよいはず……。
しかしイギリス政府は、小麦の輸出をやめさせないばかりか、何ら救済策を講じませんでした。
一部の心ある議員によって救済法案が提出されたことはありましたし、これ以前の飢饉では、アイルランド内で小麦の流通が図られたこともありました。
それなのに、この数年間にわたる飢饉では見捨てられたのです。
結果、アイルランド人では体力のない者たちから次々に倒れていきました。
少しでも余裕のある者は新天地を求めて海を渡り、何とか生き残っています。
移住先はアメリカやスコットランドなど多種多様。
有名どころでは、日本でも紅茶のブランドとして有名な”リプトン”の創始者であるトーマス・リプトンが、両親とともにスコットランドへ移住しています。
恐ろしいことに、その結果、アイルランドの人口は300万人近く減ってしまいました。
うち死者が80万~100万、移民として他国へ移り住んだ人が200万ぐらいと考えられています。
あまりにも被害が大きすぎて、正確な数字がわからないのです。
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