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アニィたかはし「日本史ブギウギ」より

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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

蘇我倉山田石川麻呂はナゼ自害した? 大化の改新(乙巳の変)功労者のナゾ

更新日:

蘇我倉山田石川麻呂「そがの・くらやまだの・いしかわまろ」

世代が離れれば離れるほど、会話って難しくなるものですよね。流行やツボも全く違いますし、日常的に使う家電やケータイ(てか、スマホ?)なども、かなりの隔たりがあることでしょう。
現代に生きている者同士でもそうなのですから、歴史上の人物は基本的に我々にとって「ワケワカメ」なのが基本です。資料や創作物によって、当時の生活習慣などがわかれば別ですが。
今回はそんな例の一つ……かもしれない、あの大事件の関連人物についてみていきましょう

大化五年(649年)3月25日は、蘇我倉山田石川麻呂が亡くなった日です。

漢字九文字だなんてどこをどう読めばいいのか一瞬わからなくなってしまいますが、「そがの・くらやまだの・いしかわまろ」と読みます。
つまり、蘇我氏の一員です。
蘇我氏といえば「むじこの世づくり」こと、大化元年(645年)の乙巳の変~大化の改新で排斥されたはずの一族ですよね。
その縁者である石川麻呂は、なぜ四年間も生き延びることができたのでしょうか。

 

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蝦夷の甥っ子、つまり入鹿とはイトコだった

石川麻呂は蘇我蝦夷の甥で、入鹿とはイトコ同士です。
つまり、蘇我氏全盛時代には、それなりの高い地位にいたことになります。
実際、乙巳の変の際、皇極天皇の御前で朝鮮の使者の手紙を読み上げていたのは石川麻呂でした。

もちろん石川麻呂は暗殺計画に関わっており、「この手紙を読み上げたら、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺する」ということを知っています。
しかしなかなか刺客が入ってこないので、石川麻呂は緊張が増すばかり。ついに震え始めたところを、入鹿に見咎められるほどだったといいます。
古代のことですので、どこまで本当かは分からないにしても、リアルですよね。

アニィたかはし「日本史ブギウギ」より

石川麻呂は「帝の御前ですので」と取り繕いましたが、それだけで入鹿が安心するわけもありません。
そこに思い切った中大兄皇子が、自ら躍り出て入鹿の首をはねた……というわけです。

残念ながら、この場面を描いた「多武峰縁起絵巻」の乙巳の変の場面では、石川麻呂は描かれていません。
この絵自体が江戸時代のものではあるのですけれども、こういうものに描かれているかどうかで、知名度はだいぶ変わってきますよね。

乙巳の変が描かれた「多武峰縁起絵巻」/wikipediaより引用

 

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改心後はNo.3である右大臣に任命される

中大兄皇子は蝦夷・入鹿排斥に石川麻呂の功があったとして、改新後の政府において、石川麻呂を右大臣に任じました。
右大臣といえば、臣下の地位としてはナンバー3です。おそらくは、石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)が中大兄皇子の妃だったからという点も大きかったと思われます。

皇后ではないにしろ、次期天皇の妃の父となれば、政治的には絶大な地位です。
しかし、石川麻呂はたった数年でその立場どころか、命まで失うことになります。異母弟・日向が「大変です! ウチの兄がお上に謀反を企んでいるようです!」(※イメージです)と孝徳天皇(皇極天皇の弟かつ中大兄皇子の叔父で先に即位した人)に讒言したのです。

いくら古代のこととはいえ、これだけではさすがに「なんだと! すぐ石川麻呂を討伐しなければ!」とはなりません。孝徳天皇は事の真偽を確かめるため、石川麻呂に使者を送りました。
……本当に謀反を企んでいたら、それこそまともに答えても答えなくても同じような気がしますがね……。

石川麻呂の答えは、どちらでもありませんでした。
使者に対し、「お返事は帝の御前で、直に申し上げます」と言ったのです。
孝徳天皇は不思議に思い、もう一度使者を送りましたが、石川麻呂の返答は同じ。なんでそこまで「帝の御前」にこだわるのかがひっかかりますよね。
なんせ石川麻呂は、かつて先帝の御前で要人の暗殺に関わった人物なのです。
「もしやアイツ……」と思われても仕方がないのに、なぜそんなに意地を張ったのでしょう。

 

妻子と共に山田寺へ 自害する

孝徳天皇も怪しみ、石川麻呂に兵を差し向けました。
が、石川麻呂は妻子とともに屋敷から逃げ、山田寺(現・奈良県桜井市)に籠もり、自害したといわれています。

讒言からの一連の流れは「中大兄皇子と鎌足の陰謀」という説がありますが、それにしたって何だかおかしな話です。
最初から蘇我氏を根絶やしにするつもりなら、乙巳の変の時点でまとめてブッコロしてしまったほうが話が早かったはずですし、一度右大臣にしてやる意味もわかりません。

さらに、讒言をした日向はその後、大宰府の長官に任じられています。栄転とも見えますが、当時の大宰府任官といえば、半分は左遷といっても過言ではありません。
また、石川麻呂の遺品や屋敷の様子からも、謀反の証拠となるものはまったく見つからなかったといいます。
石川麻呂の謀反がデタラメだったとすれば、彼を討つことによって得をする人がいたはずです。現実にはそうではありません。

しかし、全くの誤解であったにしては、日向への処罰が軽すぎるようにも思えます。
古代のことという点を差し引いても、パズルのピースが二つ三つは欠けているような、そんな印象を持つのはワタクシだけでしょうか。

石川麻呂の墓と言い伝えられているところや、推定されているところが数カ所ありますので、調査が進むことを期待したいところです。

山田寺仏頭(現在はワケあって興福寺に)/wikipediaより引用

長月 七紀・記

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参考:蘇我倉山田石川麻呂/wikipedia 乙巳の変/wikipedia

 





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