蘇我倉山田石川麻呂

乙巳の変を描いた『多武峰縁起絵巻』/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

蘇我倉山田石川麻呂の自害~従兄弟の入鹿を殺した乙巳の変では功労者だったが

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
蘇我倉山田石川麻呂
をクリックお願いします。

 


改新後はNo.3の右大臣に任命される

中大兄皇子は、蘇我蝦夷・蘇我入鹿の排斥に石川麻呂の功があったとして、改新後は石川麻呂を右大臣に任じました。

右大臣といえば、臣下の地位としてはナンバー3。

おそらくは、石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)が中大兄皇子の妃だったからという点も大きかったと思われます。

皇后ではないにしろ、次期天皇の妃の父となれば、政治的には絶大な地位です。

しかし、石川麻呂はたった数年でその立場どころか、命まで失うことになります。

異母弟の日向が「大変です! ウチの兄がお上に謀反を企んでいるようです!」(※イメージです)と孝徳天皇(皇極天皇の弟かつ中大兄皇子の叔父で先に即位した人)に讒言したのです。

いくら古代のこととはいえ、これだけではさすがに「なんだと! すぐ石川麻呂を討伐しなければ!」とはなりません。

孝徳天皇は事の真偽を確かめるため、石川麻呂に使者を送りました。

本当に謀反を企んでいたら、それこそまともに答えても答えなくても同じような気がしますがね。

石川麻呂の答えは、どちらでもありませんでした。使者に対し「お返事は帝の御前で、直に申し上げます」と言ったのです。

孝徳天皇は不思議に思い、もう一度使者を送りましたが、石川麻呂の返答は同じ。なんでそこまで「帝の御前」にこだわるのかがひっかかりますよね。

なんせ石川麻呂は、かつて先帝の御前で要人の暗殺に関わった人物なのです。「もしやアイツ……」と思われても仕方がないのに、なぜそんなに意地を張ったのでしょう。

 


妻子と共に山田寺へ 自害する

孝徳天皇も怪しみ、石川麻呂に兵を差し向けました。

が、石川麻呂は妻子とともに屋敷から逃げ、山田寺(現・奈良県桜井市)に籠もり、自害したといわれています。

山田寺仏頭(現在はワケあって興福寺に)/wikipediaより引用

讒言からの一連の流れは「中大兄皇子と鎌足の陰謀」という説がありますが、それにしたって何だかおかしな話です。

最初から蘇我氏を根絶やしにするつもりなら、乙巳の変の時点でまとめてブッコロしてしまったほうが話が早かったはずですし、一度、右大臣にしてやる意味もわかりません。

というか、乙巳の変そのものが「蘇我氏一族の内部抗争も含んでいた」という指摘もございます。

讒言をした日向はその後、大宰府の長官に任じられていました。

栄転とも見えますが、当時の大宰府任官といえば、半分は左遷といっても過言ではありません。

また、石川麻呂の遺品や屋敷の様子からも、謀反の証拠となるものはまったく見つからなかったといいます。

石川麻呂の謀反がデタラメだったとすれば、彼を討つことによって得をする人がいたはずです。

が、現実にはそうではありません。

全くの誤解であったにしては、日向への処罰が軽すぎるようにも思えます。

古代のことという点を差し引いても、パズルのピースが二つ三つは欠けているような、そんな印象を持つのはワタクシだけでしょうか。

石川麻呂の墓と言い伝えられているところや、推定されているところが数カ所ありますので、調査が進むことを期待したいところです。


あわせて読みたい関連記事

まんが日本史ブギウギ2話 乙巳の変(大化の改新)で成敗されたのは

続きを見る

まんが日本史ブギウギ3話 額田王を巡って中大兄皇子vs大海人皇子

続きを見る

まんが日本史ブギウギ4話 「茜さす」額田王と大海人皇子に対し嫉妬で死にそう

続きを見る

まんが日本史ブギウギ5話 天智天皇が大友皇子へ後任を託すとき

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
蘇我倉山田石川麻呂/wikipedia
乙巳の変/wikipedia

TOPページへ


 



-飛鳥・奈良・平安
-

×