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ローマ大火/wikipediaより引用

ローマ その日、歴史が動いた

ローマ大火 7晩燃えて市街の2/3を焼き尽くす おまけにネロの悪評も広まった!?

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世界三大大火の一つローマ大火

“違い”については論じられることの多い各国・各地域の文化も、共通点についてはそうでもないような気がします。
優劣つけやすいもののほうが反応が大きくなるからでしょうか。個人的には、そういう価値観もどうかと思いますが、今回は誰もが知っているアレとソレの、意外な共通点が見えるお話です。

64年7月19日、ローマ帝国で「ローマ大火」と呼ばれる大火災がありました。同帝国では79年にヴェスヴィオ火山の噴火があり、ポンペイが一瞬にして消えてしまいましたが、その15年前にはローマでも大きな災厄があったのですね。

この大火、日本では「世界三大大火」として、ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火(振袖火事)が挙げられたりします。
時代も場所も全く違うこの三つの火事、実は共通点があります。
全て「木造建築が多かった大都市」なのです。

ローマやロンドンに限らず、ヨーロッパの都市というと石造建築のイメージがありますよね。
しかし中世くらいまでは木造建築も少なくありませんでした。だからこそ、歴史に残るような大火災が起きてしまったのです。

ポンペイの悲劇~ヴェスヴィオ火山の噴火によって1万人の都市が一晩で消えた

 

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火元はローマの中心地 商店街だったとされている

火元は現代でもローマの中心地にほど近い、大競技場チルコ・マッシモ近くの商店街だったといわれています。
コロッセオや真実の口、フォロ・ロマーノなどがあるエリアです。

火の手が上がったのは夜だったようです。人的被害よりも建築物の被害が強調されていますので、真夜中ではなかったのでしょう。
当時のローマは既に100万都市になっていましたから、もしも真夜中に大火災が起きたとすれば、尋常ではない数の死者が出たはずですし、それが記録に残らないわけがありません。不幸中の幸いというやつですね。

この頃のローマはさながら江戸のように、木造の集合住宅が多く、道幅もかなり狭かったようです。
そのため一気に火が燃え広がり、実に七晩(!)も燃え続けて、市街の2/3を焼き尽くしたとか。
エリアに寄っては文字通り「灰しか残らない」ところもあったといいます。

もっと気になるのは、そんな大火災だったにもかかわらず、死傷者数の推定すら記録されていないことですけれど……。

 

ネロは燃え盛る町を宮殿から眺めて笑って……いない!?

当時の皇帝は、悪名高きあのネロ
火災発生当時は故郷であり別荘地でもあった、ローマ南方のアンティウムにいました。しかし、大火の知らせを聞いて直ちにローマへ帰っています。

現場でも鎮火作業や仮説住居の建設、食糧の手配などを指示し、皇帝らしく働いていました。
にもかかわらず「ネロはローマ大火の際、町が燃える様を宮殿から眺めて笑っていた」というような悪評が立ってしまったのは、この時期のネロが既に側近や前妻を処刑するなどして、暴君としての評価が固定化されてしまっていたからでしょう。

さすがのネロも、火災という大惨事では真面目に仕事をする気になったのかもしれません。
自分の宮殿も燃えていますし、放置しておくと、住むところを失った住民にフルボッコにされるからですかね。それはそれでありえる……という気がするのは、やはり固定観念でしょうか。

また、二度目の出火地点がネロの護衛隊長であるティゲリヌスの所有地だったことから、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂まで流れたそうです。

それを払拭するために、当時は「うさんくさい新興宗教」扱いだったキリスト教徒を、放火犯かつ反逆者として何人も処刑しました。
そういうことするから
「やっぱり……ヒソ( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )ヒソ」
とか言われるんじゃないですかね。

暴君ネロは家庭内でもサイテーだった……結婚した日に妻を処刑し、その日に自殺の輪廻

 

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ローマで初めてキリスト教を大弾圧したとまで

この悪評が拡大化されて「ネロはローマ帝国で初めて大々的にキリスト教徒を弾圧した」といわれるようになります。

しかも処刑の方法が火刑だったため、「肉体を失うと最後の審判で復活できない」とされるキリスト教徒からの評価がガタ落ちしました。
おそらく、その評判がキリスト教の主流になった後世ヨーロッパでも固定化したのでしょうね。

まあ、ネロはこの件以外でもアレコレやってしまっているので、暴君であることは変わりないのですけれども。

このとき火刑に処したキリスト教徒の中に、キリストの弟子の一人・パウロがいたともいわれていますが、それはデマのようです。
教皇庁では、パウロの処刑はネロの治世末期にあたる64~68年に行われたと考えているそうで。これがローマ大火の時期に近いため、混同されたのでしょう。
まさかただ単に「ネロならやりそうだから」なんて理由ではない……ハズです。

もっとも、当時のキリスト教はローマ市民の多くからも「怪しげな新興宗教」とみなされていました。
ローマで広く信仰されていた多神教を否定し、ローマの伝統的な祭りや習慣、皇帝への忠誠を拒むキリスト教徒を白眼視する市民や有識者も多かったといわれています。
だからこそネロも濡れ衣を着せたのだ、というわけです。

ネロとキリスト教徒の両方にいわば「叩けばホコリが出る」状態でローマ大火が起きたために、
「ネロがローマ再開発とキリスト教徒処分のために、わざとこのような大火災を引き起こしたのだ」
という説が固定化されてしまったのでしょう。

明暦の大火も「江戸が急激な人口増によって無秩序な都市になったため、幕閣がわざと火をつけてまわった」という俗説がありますね。
古今東西、権力者も一般市民も考えることはそう変わらないということでしょうか。

陰謀説の場合、ローマ大火ではネロの宮殿や宝物庫・神殿、明暦の大火では江戸城や大名屋敷といった、”権力者にとって重要な施設も燃えている”という点はスルーされているのが何とも。

他には、ネロの妻である皇后ポッパエアがユダヤ人と懇意にしていたこと、当時のユダヤ人居住区には被害が少なかったことから、「ユダヤ人に疑いがかかるのを防ぐためにキリスト教徒に罪を着せた」という説もあるとかないとか。

 

町の再建に私費を投じ、同時に豪華な別荘を作ってしまう

いずれにせよ、誰かを槍玉に挙げてボロクソに叩くのはいただけないですよね。
最初の火元が商店街だったことからして、おそらく本当の原因はただの火の不始末でしょうし。

この大火を受けて、ローマは火災に強い都市構造に作り変えられました。
石造建築はもちろん、道幅を広げたり、建築物の高さを制限したり、消火用の器具が各所に設けられたり、災害を意識した都市になったのです。
防火設備建設のため、ネロも私費を投じたとか。

しかしそこで「なんだ、いいこともしてたんじゃん」で終わらないのがネロです。

再建のついで(むしろ再建がついで?)に新しく豪華な別荘ドムス・アウレア(黄金宮殿)も作ってしまい、悪評はやっぱり消えません。
ここでしばらく公共の福祉に専念しておけば、もうちょっとマシに見られたものを……残念な人ですね(´・ω・`)

まあ、後年ネロが自決したときには、花を手向けに来る市民も少なくなかったそうですから、ローマ再建等で感謝している人も多かったのでしょう……多分。

長月 七紀・記

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参考:ローマ大火/wikipedia

 




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