アデレード王妃/wikipediaより引用

イギリス

王妃アデレードと愛人ドロシー 英国王ウィリアム4世の微妙な女性関係

1792年(日本では江戸時代・寛政四年)8月13日は、アデレード・オブ・サクス=マイニンゲンが誕生した日です。

後にイギリス国王ウィリアム4世の妃となる御方です。

彼女自身には目立つエピソードはないのですけれども、アデレードを含めてウィリアム4世の女性関係を見ていくと、なかなか濃ゆい雰囲気が漂います。

 


アデレード25歳のとき、英国では……

ウィリアム4世は、ヴィクトリア女王の先代にあたるイギリス王です。
映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」では、序盤の晩餐会のシーンでヴィクトリア女王の母をズタズタに口撃していたシーンがありましたね。

ウィリアム4世とヴィクトリア女王は親子ではなく、おじ・姪の関係です。
その辺に、アデレードともう一人の女性ドロシー・ジョーダンが関わってきます。

まずアデレードは、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)中部のザクセン=マイニンゲン公国という国で、ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク1世の長女として生まれました。

そのため結婚前の名前はドイツ語読みで、
「アーデルハイト・ルイーゼ・テレーザ・カロリーネ・アメリア・フォン・ザクセン=マイニンゲン」
といいます。
こういうところを比較すると、ヨーロッパ言語の類似性がわかりやすいですよね。

アデレードが25歳になった頃、海を隔てたイギリスで大問題が起きたことが彼女の運命を決めます。

当時のイギリス国王はジョージ3世。本人は比較的名君の部類に入る王で、産業革命ナポレオン戦争などの時期にイギリスの舵取りをしていた人です。

ジョージ3世は出生時の事故によって精神的な障害があったようなのですが、それも息子・ジョージ4世が摂政を務めることで何とかカバーできています。

家族を大切にする人だったので王妃との関係もよく、さらに9男6女という子宝にも恵まれ、本来であれば何も問題なく王位が継承されていくはずでした。

ウィリアム4世/wikipediaより引用

 


次々代の王位継承権を持つ人物がいない

が、ジョージ3世の子供たちは次から次へと問題を起こしてしまいます。

長男ジョージ4世は妃キャロラインを嫌って子供を一人しか作らず、その一人娘シャーロットは結婚はしたものの、子供を産む前に亡くなりました。
次男フレデリックにも子供がなく、三男ウィリアム4世と四男エドワード・オーガスタスはそもそも正式に結婚しておらず20年以上も愛人と暮らしていた……という状況です。

つまり、次代はともかく「次々代の王位継承権を持つ人物がいない」という状況になってしまったわけです。

ウィリアム4世には愛人ドロシー・ジョーダンとの間に10人近く子供がいました。ただし庶子のため王位継承権はありません。

ドロシー自体王室での権力には興味がなかったらしく、宮廷に入ろうとはしませんでした。
子供たちにウィリアム4世の爵位である「クラレンス公」由来の「フィッツクラレンス」姓が与えられたくらいです。

王室や議会からの期待もあり、ウィリアム4世はドロシーとの関係を断ち切り、50代に入って初めて正式な結婚をし、世継ぎを儲けることを決めました。

ドロシーには年金が与えられ、きれいに別れています。

ドロシー・ジョーダン/wikipediaより引用

 


2人の王女が生まれたものの2人とも夭折してしまう

こうして1818年、53歳のウィリアム4世と26歳のアデレードが結婚。
二倍以上の年齢差がある夫婦ですが、仲は良かったようで、1819年と1820年に王女が生まれています。

しかし、二人とも夭折してしまい、その後は子供に恵まれませんでした。

この年齢となると、アデレードよりもウィリアム4世のほうに原因があったのでしょうかね。

1830年にウィリアム4世が即位した後は王妃となりましたが、その頃には諦めがついていたのか、ドロシーの産んだ子供たちの世話をしていたそうです。

1837年にウィリアム4世が亡くなり、ヴィクトリア女王が即位。
その後は、その立場を慮ってか、アデレードに「王太后」の称号が与えられています。

一方、愛人のドロシーもその後、不幸な末路をたどりました。

ウィリアム4世との関係を解消して年金をもらうとき、「二度と舞台に立たない」という条件がついていたのですが、これを破って舞台に出てしまったのです。
他の男性との間に生まれた娘が、夫の借金で困窮しており、娘夫婦を助けるためだったのですが……その辺は考慮してくれなかったようです。

ドロシーは年金を打ち切られて困窮し、借金取りから逃れるためにフランスへ渡った後、パリ近郊のサン=クルーで亡くなったといわれています。
直接の理由はウィリアム4世やアデレードではありませんが、何とも哀しい最期ですね……。

 

元英国首相・キャメロンはドロシーの子孫

ドロシーの最期を伝え聞いて罪悪感が湧いたのか、ウィリアム4世は1831年(即位の翌年)にドロシーの像を建てるよう命じました。完成まで三年かかっているので、それなりに力を入れて作らせたと思われます。

この像は1837年にウィリアム4世が亡くなった後、ドロシーの息子である初代マンスター伯爵ジョージ・フィッツクラレンスに与えられました。
マンスター伯爵家が所蔵しておりましたが、1975年に現在のイギリス女王・エリザベス2世に献上され、1980年からはバッキンガム宮殿に飾られているとか。

また、元イギリス首相のデーヴィッド・キャメロン氏はドロシーの三女エリザベス・フィッツクラレンスの子孫の一人だそうで。
日本でも旧宮家や大名家の子孫の方がいらっしゃいますが、「歴史は生きている」と感じさせますね。

子孫を残したドロシーと、立場を手に入れたアデレード。
日本史で例えるとすれば、一条天皇・藤原彰子・藤原定子みたいな感じでしょうか。

どちらが幸せなのか、それとも二人とも不幸とみるか、本人たちはどうだったのか……いろいろと考えさせられます。

長月 七紀・記

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【参考】
アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン/wikipedia
ドロシー・ジョーダン/wikipedia
ウィリアム4世_(イギリス王)/wikipedia
エリザベス・フィッツクラレンス/wikipedia


 



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