1762年(日本では江戸時代・宝暦十二年)8月12日は、英国王ジョージ4世が誕生した日です。
名前は実にありふれたものですが、彼の素行もまたありふれた不良というか、王族らしからぬというか……。
そのせいで(?)幼少期のエピソードがほとんど伝わっていません。
王太子時代に遊興が過ぎて、王室費の半分に匹敵する借金を作っているのです。
どんだけぇ~。
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ボンクラ息子たちのせいで父親は病気を再発
環境のせいなのか。
血筋のせいなのか。
ジョージ4世以外の兄弟(つまり王子たち)も品行方正とは到底いえない人ばかり。
父・ジョージ3世や母・シャーロット王妃の胃と神経を大いに傷めました。
特にトーチャンのほうは元々繊細な性格だった上に、持病のポルフィリン症(血液の中にあるヘモグロビンを作る成分の異常により、日光過敏症や肝臓の異常が起きる病気)が再発してしまったため、政務を執れないほどになってしまっています。放蕩息子ってレベルじゃねー!
一応、父が静養生活に入ってからは摂政として仕事もしているのですが……その間にもブライトンという海辺の町にデカイ別荘ロイヤル・パビリオンを建てていたりします。
当時イギリスの上流階級では「海水浴が健康にいい」というブームが起きており、ジョージ4世が別荘を作ったのをきっかけにブライトンも賑わうようになったので、一応経済の流れとしてはよかったかもしれません。
ただし、ロイヤル・パビリオンに金を使いすぎて、ジョージ4世自身の評判はダダ下がりになります。
もうちょっと両親に優しくしてやれと(´・ω・`)
「ワーテルローの戦い」には勝っている
即位前の事績として一番大きかったのは、ナポレオン戦争の終幕を飾る「ワーテルローの戦い」に勝ったことでした。
ナポレオン戦争の詳細を述べると、それだけで数千字になってしまうので割愛しますが、平たく言うと「ナポレオンが一度捕まって脱走した後、百日天下の最後の戦い」です。
このとき、イギリスはオランダとの連合軍を組み、プロイセン軍と共にフランスと戦うことになりました。
英蘭連合軍の指揮官は、ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー。
彼は部下に対する罵倒もスゴかったのですが、
【兵士たちは粗暴だが勇敢だ。紳士が統率すれば大きな力を発揮する】
というポリシーを持っており、部下たちもウェルズリーが自分たちをそうみなしていることを知っていたので、軍としてまとまることができたのです。
中間管理職にあたる人がアテにならず、ある程度下の方までウェルズリーが直接命令していたというのも、兵に彼の考えが行き渡ることになってよかったかもしれません。
ワーテルローの戦いは1815年で、ジョージ4世が摂政をやっていた頃のできごとです。
ということは、ウェルズリーに指揮を任せたのもジョージ4世(と議会)ということになるわけですから、彼がただの浪費家な王ではなく、人を見る目があったとみ……たいところですが、亡命してきたルイ18世などを援助しているあたり、残念ながらそうともいえなさそうです。
褒めたいのに褒めさせてくれません。残念すぎる。
風呂嫌いで体臭が……な奥様・キャロライン
また、彼の人間関係でもう一つ欠かせない人がいます。
王妃のキャロラインです。
彼女とジョージ4世はいとこ同士だったのですが、当初からかなり険悪な仲でした。
まあ、キャロラインは風呂嫌い過ぎて体臭がドギツく、ジョージ4世は体重110kgあったというのですから、お互いに好きになれなくても仕方がなかったかもしれません。
歩み寄る努力ぐらいはしてほしいけど(´・ω・`)
王の務めといえば子孫を残すことも重要ですけれども、ジョージ4世は「初夜の時しか一緒に寝ていない」とすら豪語するほど、キャロラインを嫌っていました。
唯一の子供であるシャーロット・オーガスタが結婚の翌年生まれなので、本当にそうなのかもしれません。
シャーロット・オーガスタは生まれてすぐに母親から引き離されてしまいました。
あからさまに王宮で冷遇されるようになったキャロラインは、ヨーロッパ諸国を旅して回る生活を始めます。つまり別居状態です。
しかもそのシャーロット・オーガスタは20歳で結婚した後、翌年男子を死産し、自らも命を落としてしまいました。
ジョージ4世の即位がその後なので、彼は「あんな名ばかりの王妃は必要ない」とばかりに、即位式にキャロラインの出席を許さず、離婚までしようとします。大人げないというかなんというか……。
即位式の日、民衆から「奥さんはどこに行ったんですかwww」と言われたそうですから、たぶん当時の人からもジョージ4世のほうが大人げないと思われていたんでしょうね。
スコットランドの伝統衣装・キルトを身につけ現地を訪問
これが精神的に堪えたか。
キャロラインはジョージ4世の即位翌年に亡くなっています。
その後、ジョージ4世は愛人は作っても、再婚して子供を得ようとはしませんでした。
弟が何人もいたので、自分の子供にこだわる必要がないと思ってたんですかね。
ちなみに、キャロラインは「娘のそばに葬ってほしい」と遺言していましたが、それすら拒否されて実家のブラウンシュヴァイク(ドイツ北西部)に埋葬されたそうです。
死んだ後くらい優しくしてあげてもいいのに……。
こんな感じで、ジョージ4世は褒めるのがとても難しい王様なのですけれども、二つだけ大きくプラスになったことがありました。
一つは、ハノーヴァー朝の王として初めてスコットランドを訪問したことです。
そして訪問中に、スコットランドの伝統衣装・キルトを身につけることによって、イングランドへの反感を和らげることに成功しました。
既に「サー」の称号を得ていた地元の作家、ウォルター・スコットに勧められたから、ともいわれています。
キルトとはタータンチェック柄の巻きスカートのようなものです。
諸々の理由でこの時代には廃れてしまっていたのですが、ジョージ4世が身につけたことにより、元々着ていなかった地域までキルトを着るようになったそうですよ。
また、この訪問がきっかけで、ジョージ4世以降、イギリス王室の男性はスコットランドを訪れた際にキルトを着用する習慣ができたんだとか。
ヴィクトリア女王へ引き継いでいく
スコットランド訪問の時点で、ジョージ4世は既に60歳を越えていました。
晩年は愛人(ただし人妻)と隠居生活に近い状態で、積極的に政治に関わろうとはしなかったようです。
国王の位は弟のウィリアム4世が継ぎましたが、彼の子女も夭折していたため、さらに弟の血筋に王位が継がれていくことになりました。
その「弟」の娘であり、ジョージ4世・ウィリアム4世の姪にあたるのが、あのヴィクトリア女王です。
ジョージ4世・ウィリアム4世はそれぞれ違った意味の不品行で両親をやきもきさせましたが、イギリスという国にとってはよかったのかもしれませんね。
ヴィクトリア女王の時代にも問題がなかったわけではありませんが。
もしジョージ4世とキャロラインが夫婦円満で、子供が多く、そちらの血筋のままハノーヴァー朝が続いていたとしたら、歴史は全く違うものになっていたのでしょう。
何が功を奏すかわからないところが、歴史の難しくもあり面白いところです。
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長月 七紀・記
【参考】
ジョージ4世 (イギリス王)/wikipedia
キャロライン・オブ・ブランズウィック/wikipedia
ロイヤル・パビリオン/wikipedia