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『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 幕末・維新 その日、歴史が動いた

大政奉還から戊辰戦争が終わるまでのドタバタが超わかる! 幕末のクライマックスとは?

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幕末~明治維新って、大河ドラマ等でよく扱われる割に小難しくありません?

おそらくその理由の一つが、次々と情勢が移り変わり、その都度、新しい用語が出て来ることでしょう。幕末からの流れである「戊辰戦争」にしても複数の戦いがありますし、その後の新政府の政策にしたって、王政復古の大号令やら五箇条の御誓文やら版籍奉還やら、色んなことが同時に進みこんがらがってしまいます。

要は、起点をドコに置くか?
それが難しいワケで……。

そこで本日は大政奉還を中心に据え、戊辰戦争のケリがつくまでを見てみましょう。

幕府から朝廷へ政権を返した――そんな認識はおありかと思いますが、この頃の全体の流れとなりますと意外と見落としがちなことも多々ありますので。

 

将軍家から朝廷へ政権をお返しします

ズバリ、大政奉還とは?
言葉の意味としては、十五代将軍・徳川慶喜が「朝廷へ政権をお返しします」という書面を提出し、翌日、明治天皇からの許可が降りたことを指します。

実質的には国王同様の権力を持っていた征夷大将軍ですが、実は、朝廷から将軍に任じられなければその座にはつけません。
幕末になると、開国に関する騒動をはじめとした政治的混乱がアチコチで起き、朝廷では「もう幕府いらなくね?」と考える人が増えていました。一応、親幕府派もいたのですが、こうした流れが大きなうねりになっていったのですね。

現代では「このままではクビ(物理)にされてしまう!」と危機感を抱いた徳川慶喜が、「そうなる前に討伐される名目をなくそう」としたのが大政奉還である……とする見方も強くなってきています。
といっても、単なる命乞いではありません。

幕府からも遣欧使節(ヨーロッパへの視察団)を出しており、立憲君主制や議会などの情報は入ってきておりました。
慶喜はこれを日本に導入し、天皇の下に武家による議会を作り、自分と徳川家がその中心になろうとしたのです。

実質的には「多少権力の弱まった幕府が、天皇の下にくっつく」くらいのイメージだったでしょう。

徳川慶喜/wikipediaより引用

 

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坂本龍馬や土佐藩なども……

倒幕派の中にも、土佐藩などが慶喜と同じような意見でした。
これは、坂本龍馬の意見をさらに発展させたものだといわれています。

これを元に前土佐藩主・山内容堂が慶喜に大政奉還を勧める建白書を書き、さらにその説明書きとして土佐藩のお偉いさんが改革意見書をつけて幕府に提出。
広島藩主・浅野長訓からも似たような趣旨の手紙が送られています。

慶喜は京都にいた10万石以上の藩の重臣を二条城に集め、この方針に対する意見を募りました。

が、ほとんどの者はハッキリした意見を出さずに様子見していたといいます。
当時はどっちがどう転ぶかわかりませんから、「もうちょっとどちらが有利か確信できるまで待とう」というわけです。

この後、広島藩や土佐藩はもちろん、薩摩藩や岡山藩、宇和島藩などの重臣たちが慶喜に改めて大政奉還を促しました。有名どころでは、薩摩の小松帯刀などがこの中にいます。

小松帯刀(小松清廉)35で亡くなった幕末の俊才は西郷隆盛と島津久光の仲も取り持った

 

幕府からの謙虚な意見と朝廷からの穏便な返信

全ての藩から意見を聞くことはできなかったものの、再三勧められて、慶喜も政権を返すことを決めました。

このときの文章は極めて謙虚なものです。
おおざっぱにまとめるとこんな感じです。

「先祖家康の代から一方ならぬご寵愛を賜り、二百年以上もの間当家が受け継いで参りました。
昨今のような状況になってしまったのは、ひとえに私の不徳の致すところであり、慚愧に堪えません。
この上は従来の慣習を改め、朝廷に権力をお返しし、皆心を一つに合わせ、この国をお守りしたいと考えております。
そうすれば、海外のどんな国とも渡り合っていけるでしょう。
これが、私が国のためにできることだと心得ております。
また、諸侯から今後についての意見があれば受け入れ、改めてご連絡申し上げます」

一方、朝廷からの返事は?

「先祖代々ご苦労だった。
昨今の状況をみるに、そなたの建白書の意見はもっともである。
皆心を一つにし、この国と陛下をお守りしていこうではないか」

上記の内容からして、この時点では武力による倒幕はされないかに見えました。

 

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【王政復古の大号令】で徳川家はノーセンキュー!

これで形式的には幕府が終わり、朝廷が政権を担うことになります。

が、まだ実務機関ができていなかったので、しばらくは慶喜を含めた幕府の中心人物が引き続き政治を行わなければなりません。
慶喜はこの状態を保ち、武家議会の発足に持っていこうと考えていたようです。

しかし、それは徳川家や佐幕派を追い払いたい倒幕強硬派にとっては非常に邪魔なことでした。

彼らが作りたいのは「西洋式の新しい国家」なので、旧体制の象徴ともいえる幕府の要人が政権に残ってしまうと、悪影響になると考えていたわけです。
なので、何が何でも徳川家を追い払おうと画策します。

そのために【王政復古の大号令】によって「これからは天皇中心の政府を作るんだから、徳川家はノーセンキュー!」(超訳)と表明し、慶喜に官位と領地を返すよう求めました。

もちろん、慶喜は政治に関わり続けたいのでこれを拒否。
しかし朝敵(朝廷=天皇の敵)にもなりたくはないので、京都を離れて大坂城へ移りました。

二条城は京都のど真ん中ですが、大坂城なら籠城戦もできますし、経済の中心地でもあります。
慶喜についてはあまり良いイメージを持たない人もおられると思いますが、行動ひとつひとつを見ていくと、過去の偉人や地理・情勢をよく把握していることがわかりますね。
一言でいえばアタマが良い。

しかし、慶喜の考えは広く通りませんでした。

夕焼けの二条城

 

慶喜が大坂に出向いたところで鳥羽・伏見の戦いが勃発!

慶喜の行動を是としない倒幕派は、解決(物理)のための工作を始めました。

例えば西郷隆盛は、自身の息のかかった志士たちに命じて江戸で暴れ回らせます。
その報復として江戸の薩摩藩邸が襲撃されたのですが、言わば「肉を斬らせて骨を断つ」というやつでしょうか。

現代から見てもあまり綺麗な方法ではありません。
結果的に新政府軍が政権を取ったため今もクローズアップされることは少ない気がしますが、ぶっちゃけて言えばテロ行為です。

当然ながら、当時を生きていた関係者、特に幕府サイドにとっては、怒髪天を衝く勢いでブチ切れる理由になりました。

大坂城で一連のことを聞いた佐幕派は、慶喜に新政府との戦争を持ちかけます。
慶喜も止めきれず、ついに武力衝突が発生!




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これが【戊辰戦争】の始まりである【鳥羽・伏見の戦い】です。

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