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日本史オモシロ参考書 明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

明治時代の「衣食住」に注目~江戸時代から何が変わって何が流行った?

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明治時代は、庶民にとっても数多くの大きな変化を感じた時代でした。

受験勉強や政治の流れとは少々離れますが、当時の一般人の生活を知るのもまた一興。
2018年大河ドラマ『西郷どん』など、この時代を描いた創作物をより深く味わうこともできると思われます。

今回は明治時代の衣食住について見ていきましょう。

 

「衣」について

衣服の変化については、なんといっても洋服の普及です。

まずは皇室や政府の正装が洋服とされ、同時に軍人や駅員・郵便局員など、公的機関の制服も同じように洋装と定められました。
町のあちこちで見かけるこれらの職業の人々が洋服を身につけている姿は、やがて一般庶民にも受け入れられ、憧れとなっていきます。

明治十一年(1878年)には
「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とする」
という法律が作られました。

束帯は平安時代に生まれた皇族及び公家の正装で、現在でも天皇陛下が祭祀の際に着用されています。
また、天皇や皇太子しか身に着けられない「禁色(きんじき)」というものもあります。

女性の場合もやはり、高貴な人々の正装が洋服になりました。
明治十四年(1881年)に「高官が公的な場に夫人を伴う際は洋装とする」というお触れが出されています。

鹿鳴館外交はその後の話です。
それまで高貴な女性は家から外出しないものでしたが、西洋のパーティーでは夫人同伴がセオリーだったため、日本もそれに倣うことになったのでした。

それ以外の場合では、看護婦に洋服が用いられていましたが、他の女性達にはなかなか広まりませんでした。
女性の洋装が遅れた理由は、主に二つあります。

鹿鳴館を描いた浮世絵/wikipediaより引用

 

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お値段や髪型の問題が依然として残り、導入が遅れる

一つは、価格や希少性の面です。

明治初期は、たとえ華族でも西洋のドレスや服を手に入れるのが難しいほどでした。

入手・着用までにとても時間がかかるので、有名な【鹿鳴館外交】(「洋風の建物で西洋のダンスをすれば文明国として認められるに違いない」という外交方針)の頃に日本で使われていたドレスは、西洋では既に流行遅れになっていたそうです。
鹿鳴館外交の方針ともども、これは西洋諸国からは冷たい目もしくは失笑されていたとか。今と違って、すぐに情報が伝わるわけじゃないですからね。

もう一つは、髪型の問題です。

男性の場合は髷(まげ)を切って整えれば【散切り頭】にできますが、「女性の髪をばっさり切ってショートカットにする」という発想はこの時代には存在しません。
女性が髪を短く切る(剃る)=出家になってしまいます。
ヨーロッパでも似たようなもので、女性のショートヘアが流行ったのは第一次世界大戦後のことでした。

そのため、女性の場合は洋服の廉価化と共に、洋装に似合う髪型の改良が必要だったのです。

江戸時代までと同じくいろいろなスタイルが考案され、和装でも洋装でも合わせやすい髪型もいくつかありました。
ちょっと面白いところでは、日露戦争の頃に「二百三高地(髷)」というヘアスタイルが登場しています。

例の高地を思わせるような、こんもりと盛り上げた髪型です。

こうして少しずつ洋装は進んでいきましたが、制服で洋服を着る人々もプライベートでは和服を愛用していたり、現在ほどの普及ではありませんでした。
戦時中を描いたドラマや映画だったり、サザエさんなどの昭和を舞台としたマンガでも、和服の登場頻度は高いですよね。

その一方で、「袴にブーツの女学生」や「和服の上にインバネスコート」など、この時代ならではの和洋折衷スタイルも生まれています。

創作物でこういった服装を出せば、すぐに「明治か大正あたりの話だろうな」というイメージができるくらい、お馴染みですね。

実は、他のアジア諸国でもこの手の折衷スタイルはありました。
中国では「漢服に西洋の帽子」、インドでは「洋装にターバン」などがあったようです。

西洋化せざるを得なかった当時のアジア人の意地というかプライドというか、そんなものもうっすら感じられるような気がします。

 

「食」について

この時代の食の話題といえば、やはり肉食の普及でしょう。

政府が肉食を勧めた理由としては、「文明人になる」という他に、体格向上の目的もありました。
「西洋人は立派な体格をしている」=「彼らは肉をよく食べる」=「日本人も、もっと肉を食べれば体格が良くなれるかも?」→「(ピコーン!)そうすれば、もっと強い国になれるよね!」という連想があったわけです。お雇い外国人からもそういった助言がありました。

残念ながら、平均身長が西洋並みに近づいたのは戦後のことでしたが、まあ……そんなに急に平均は上がりませんよね。
もっとも、これは西洋にアジア系が増えて、あちらの平均が下がったからでもありますが。

肉食の普及は体格向上に繋がりました。
が、現代では「食の欧米化がさまざまな病気の原因になる」という説も出てきていますし、バランス感覚がより大切になってきましたね。
日本食も、エネルギーが低い代わりに塩分が高くなりがちですし。

軍では、陸より海のほうが洋食化が進んだといわれています。

これは海軍大臣だった西郷従道が「海軍は上野の精養軒に通って洋食に慣れるべし」と言い聞かせていたことによるものです。
どちらかというと海軍のほうが外交儀礼での出番も多いですし、そういったことを見越していたのでしょうか。

陸軍では軍医だった森鴎外が「日本人には和食のほうが向いているし、洋食の害を危ぶむべき」と主張していたため、普及が遅れたとか。
これはこれで結果的には間違っていませんので、なんとも難しいものです。

 

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お肉を食べたらダメだ!と皇居へ突撃する者も

一般人ではやはり、千年以上に渡る「家畜を食べるべからず」の禁を犯すことに対する抵抗が強くありました。

中には、皇室が肉食を始めたとき「お上が汚れた肉を食べるなんてとんでもない! 神のご加護がなくなってしまう!」と、皇居に突撃(物理)した人までいたといいます。
現代だったら「フェイクニュースかよ!」とツッコんで終わりでしょうが、当時は珍しくない考え方でした。

それがどうして広まったのか?
だいたいこんな感じが多かったようです↓

Aさんが勇気を出して牛肉を食べる

「うまい!」(テーレッテレー!)

「うまいからうちの奥さんにも勧めよう!」

Aさんの妻B「牛の肉を食べるなんてとんでもない! 私はイヤです!!」

Aさん「本当にうまいのに(´・ω・`) 健康にいいって言えば食べてくれるかな?」

Aさん「おいお前、このところ調子が悪いって言ってただろう。牛肉は薬になるっていうから、食べてみないか」

Bさん「そうなの? じゃあ少しだけ……あらおいしい!」(テーレッテレー!)

Bさん「こんなにおいしいもの、なんで今まで食べなかったのかしら? もっと食べましょう」

Aさん「計 画 通 り」

実は江戸時代までにも、彦根藩などで薬用として牛肉の味噌漬けが作られていました。
戦国時代にも「薬喰い」として鶏肉を食べたという記録がありますので、肉が滋養強壮に良いということは知られていたわけです。

それでも日本人が家畜の肉を食べたがらなかったのは「千年来の禁である」ということの他にも理由がありそうです。

「日本の国土には平地が少なく、簡単には牧畜ができなかった」
「自然環境的にも人間が食べるものを栽培するのが精一杯で、飼料用の穀物を大量生産することなど、思いもよらなかった」
この辺が関係していそうですね。

中国で料理に多用される&家畜として優れている羊が、日本にはあまり生息していなかったことも理由の一つかもしれません。

これは日本と同じように、島国&山岳地帯が多い台湾でも似た傾向があります。

台湾では古くから豚肉を食べていましたが、羊ではなく山岳地帯でも生きていけるヤギを食用にすることが多かったとか。また、牛についても日本と同じく「農作業を手伝ってくれる動物を食べるなんて、とんでもない!」という考えが強かったそうです。
現代では中国料理の影響もあり、台湾でも牛を食べますが、羊を食べることに抵抗がある人は少なくないとか。

食文化一つとっても、歴史の流れをうかがい知ることができますね。

明治時代の日本は、こうした技術的・歴史的・文化的な理由のいくつかを解決できたことにより、肉食が進んだわけです。

また、服装の和洋折衷と同じように、食にも日本独自のアレンジが加えられました。
文明開化の一例として有名な牛鍋は、狩猟肉によく用いられていた味噌などの味付けを、牛肉に応用したのが始まりだったそうです。

その後、醤油と砂糖を中心とした味付けに変わり、さらにすき焼きへと変化して現代に続きます。

 

「住」について

現代でも「一生に一度の買い物」といわれるように、住宅については衣服や食ほどの変化はありませんでした。

が、建築関係にまで視界を広げてみると、やはり西洋の影響がみられます。

明治二十年代ごろまでは「擬洋風建築」という形式がよく用いられました。
「ニセモノ」を意味する「疑」や「偽」ではなく、「似せて作る」という意味の「擬」です。

ぶっちゃけた言い方をすると「なんちゃって洋風建築」という感じでしょうか。学校や郵便局などの公共機関によく使われた建築様式です。

木造・漆喰・屋根瓦といった日本建築の特徴を色濃く残しつつ、西洋風の尖塔などがついています。
明治中期には西洋の建築技術がより多く入ってきたため、この手の建築物は徐々に少なくなっていきました。

鹿鳴館外交と同様、西洋の人からすると擬洋風建築はあまり出来がいいとはいえないそうですが、この時代特有のロマンやノスタルジーがありますよね。
擬洋風建築の多くは戦災や災害で失われてしまっていますけれども、現代も残っているものや再建されたものもあるので、密かにファンが多いかもしれません。

 

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耐火性を期待されたレンガは大地震に対して脆すぎて

もう一つ、明治時代の建築の特徴として、レンガが多く用いられていた点が挙げられます。

主に耐火性を期待して、銀座煉瓦街など一定の範囲に使われました。
が、関東大震災で東京周辺にあったレンガ造りの建物が軒並み壊滅してしまったため、その後は鉄筋コンクリート造へ移り変わっていきます。

例外は横浜赤レンガ倉庫などです。
関東大震災における住宅全壊数が一番大きかったのは神奈川県なのですが、横浜赤レンガ倉庫は1号倉庫が30%損壊した程度だったとか。

また、東京以外の場所で戦火・天災を免れたものについては、現代になってから再利用されているレンガ造りの建物も多く存在します。
神戸の煉瓦倉庫レストラン街などが代表例ですね。

明治に限らず、衣食住の話題はドラマ・小説などの風景や「テスト前だけ暗記して終わり」でさらっと流してしまいますけれども、ちょっとのぞいてみると、さまざまな背景が隠れているものです。

日常生活や旅先で見かけたら、ちょっと足を止めてみるのも面白いかもしれません。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「文明開化」 文明開化/wikipedia 擬洋風建築/wikipedia

 



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