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近年では足利直義説が唱えられている源頼朝肖像画/wikipediaより引用

源平 鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

源頼朝53年の生涯をスッキリ解説!鎌倉幕府の設立や死因、両親など、その素顔に迫る

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源氏と言えば、誰を真っ先に思い浮かべます?

源氏物語は作品なので除外。
となると、おそらく半数以上の方が「源頼朝あるいは源義経」と答えるのではないでしょうか。

なんつったって、武家政権を最初に作った人ですからね。
そりゃあ、やっぱりスゲェです。

いかにも立派な武士というイメージです。
が、実際は、父が平清盛に負けて約20年もの謹慎生活を送らされ、いざ平家討伐で立ち上がった直後の合戦でも緒戦でイキナリ負けたり、必ずしも輝かしい経歴ばかりじゃありませんでした。

というか、鎌倉幕府守護地頭以外のことって、実はあまり知られてないかもしれません。

一体、頼朝ってどんな人だったの?
本日はその生涯53年をスッキリまとめてみました。

 

早い時期から「源氏の御曹司」だった生まれ

源頼朝は久安三年(1147年)、源義朝の三男として生まれました。
長男ではなかったんですね。

母は、熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘である由良御前。

京都にいたであろう義朝と、熱田神宮=愛知県の人がどんな縁で結婚することになったのか。
ちょっと不思議になりますよね。

これは、季範が藤原南家の出身であること。
さらに季範の母が、元々は熱田神宮の大宮司を務めていた尾張氏の出身ということが関係しております。

大宮司とその周辺にとって、京都、しかも南家ではあるものの藤原氏に対して「縁ができた」ことが政治的に大きいのですね。

そんなわけで、この頃の大宮司家の関係者は北面の武士になったり、あるいは後白河上皇の母・待賢門院や、姉の上西門院(統子内親王)に仕えたりということが多かったようです。

詳細は不明ながら、由良御前も上西門院の女房だったのではないか? とする説もあります。

熱田神宮本宮

由良御前と結婚した頃、義朝には既に長庶子・源義平がいました。

義朝は元々関東で育った人です。
それが由良御前と結婚する前に、義平に関東を任せ、上京したといわれています。

おそらくは、結婚を通して当時の治天の君(政治を行う天皇や上皇のこと)・鳥羽上皇などに近づこうとしたのでしょう。

こう書くと何だか政治色が強く感じられますが、十年前後の夫婦関係で、頼朝を含めた3~4人の子供が生まれていますので、それなりに良好な関係だったと思われます。
後に頼朝も、奥州合戦の前や最中に由良御前の法要を営んでいますから、母に対する思慕の念も小さくなかったでしょうし。

そんなこんなで、母方の祖父である藤原季範の別邸(現・誓願寺)で頼朝は生誕。
幼少期のことは不明ながら、藤原氏の血を引く由良御前の息子ということで、早い時期から「源氏の御曹司」と見られていました。

 

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女性に助けられがちなのは高身長・イケメンだから?

彼ら源氏の運気が上昇し始めたのは1156年。

父・義朝が保元の乱で後白河天皇方につき、勝者の一員になると、その二年後に頼朝は上西門院に仕えるようになります。
これで、親子揃って正式に朝臣となったわけです。

また、平治元年(1159年)には、二条天皇の蔵人となりました。
蔵人は秘書のような仕事をする下級役人ですから、朝廷の内部にも関わり始めたとみていいでしょう。

ここでちょっと、頼朝の容貌についてお話ししておきましょう。

京都の神護寺にある超有名な肖像画は、近年では別人説が有力になっています。

じゃあどんな顔なのか?
というと平治物語や同時代の人々が頼朝について記述しているため、「どんな雰囲気の人だったのか」という点を推し量ることはできます。

大まかにまとめると、
「年齢よりは大人びて見える」
「顔は大きいが美形である」
という評価が共通しているようです。

また、頼朝が奉納したとされる甲冑から推測した身長は165cmほど。
当時の平均より大きい……というか、はるか後年の織田信長が168cmぐらいだったとされていますので、平安時代ではかなりデカイほうかと思われます。

美形かつ高身長、さらには皇室の血を引く源氏の貴公子。
宮中ではさぞ評判が高かったことでしょう。
後述するように、頼朝はたびたび女性に助けられているのですが、日頃からいろんな意味で目をかけられていたからこそ……だったのかもしれません。

 

なぜ平家サイドの清盛・義母が助命に動いたか

頼朝の初陣は、平治元年(1159年)の平治の乱でした。
二条天皇に仕え始めてから半年ほど経った頃です。

一時、義朝の協力者である藤原信頼が実権を握ったときは、従五位下・右兵衛権佐という官位を得ています。
位階としては高くないものの、これは兵衛府(ひょうえふ)という、天皇の親衛隊のような役所のNo.2にあたります。乱の前から上西門院や二条天皇に仕えていた頼朝にとって、蔵人よりも武士らしく誇らしい仕事だと感じられたでしょう。

しかし、清盛が帰京すると状況は一転。
義朝は敗れ、頼朝は京を脱出したものの、美濃で捕らわれて清盛の前に引き出されます。

当然斬られるところでしたが、ここで清盛の義母・池禅尼(いけのぜんに)が頼朝に味方しました。

「なんで平家側の人が頼朝に味方したの?」
「義理のカーチャンだからって、なんで清盛はあっさり言うことを聞いたの?」

そんな疑問が湧いた方もおられるでしょう。
歴史の授業などでは、意外とその理由って説明されないんですよね。

実はこのカーチャン、とても先見の明がある人でした。

 

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清盛の政治感覚も当時としては妥当だった

池禅尼は保元の乱の際、崇徳上皇と後白河天皇のどちらかにつくか清盛が迷っていたところを、
「上皇様に勝ち目はない」と言い、
後者につくよう勧めたといわれています。

さらに、清盛にとっての異母弟である息子・頼盛には「必ず兄に従いなさい」と命じ、平家の分裂を防ぎました。

池禅尼は崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母だったのにもかかわらず、冷静に状況を見極めて結果を予測し、一族をまとめた……という、清盛以下平家一門にとっては、頭の上がらない相手だったわけです。

また、頼朝は上記の通り、以前から上西門院・二条天皇に仕えていた上、母方は熱田大神宮家の出です。
熱田神宮の御神体は三種の神器の一つ・草薙の剣の本体を祀っていますから、やはり皇室と非常に縁が深いということになります。

おおざっぱにまとめると、頼朝には自身の血を含め、二重三重に皇室との縁があったわけです。
更には上西門院側からも助命嘆願があったとされています。

一方で清盛も政治感覚に優れた優秀な人物です。

ここで意地を張れば、
・義母に逆らう→異母弟らを敵に回す
・女院の嘆願をはねのける→皇室を(ry
となり、一族の結束も、皇室からの信用も失うことになる、と考えたのでしょう。

かくして清盛は、頼朝の処刑を取りやめ、伊豆への流罪としました。
この時点、かつ中央政界においては正しい判断でした。

平清盛/wikipediaより引用

 

伊豆での謹慎生活はかなり自由!?

清盛最大の失態は、
「伊豆を含めた東国が、基本的に源氏を支持している」
という点を忘れていたか見逃したか、あるいは軽視していたことです。

実際、流罪だったとはいえ、伊豆での頼朝はかなり自由に暮らしていたと考えられています。
房総半島まで行っていたこともあるようですし、平治の乱で源氏についていた武士が伊豆までやってきて、頼朝に仕えたともされています。

また、狩りや京都にいる知人と手紙のやり取りなどもできていました。

監視はあったものの、その監視担当の伊東祐親や北条時政が頼朝に味方していたので、意味がないというか^^;
時政の娘があの政子ですしね。

現代人からすると、流罪というよりは左遷のほうが近い感じですね。

おそらく、清盛を含めた当時の勝者たちは、
「東国は未開の地同然だし、京都から追い出してしまえば万事うまくいく」
と考えていたのでしょう。

清盛は、平治の乱で自らの地盤が近所だったおかげで最終的な勝者になれたのですが……立場が逆になるとわからないもんなんですかね。

対して、頼朝の賢明さは、
「約20年もの長きに渡って、関東でおとなしくしていた」
ということです。

現代よりはるかに寿命の短かった平安時代のこと。
頼朝は33歳になっておりましたから、あと15~20年生きられるかどうか……という頃合いです。

武士ですから、ほとんど動かない公家よりは体調面で健康的だったでしょうけれども、それでも20年というのは果てしなき時間です。

 

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神通力を喪いかけた清盛と後白河法皇の対立

その間、京では、平家の専横に対する不満が溜まりに溜まっていました。

平治の乱の後、清盛は、妻の時子が二条天皇の乳母だったことなどから、急速に皇室に食い込み、広大な荘園を持ち、さらには日宋貿易によって莫大な富を得ていました。
当然武力もあります。
なので、都の何もかもが平家の思い通りになっている状況だったのです。

保元・平治の乱ではあれほどのバランス感覚を見せた清盛。
この頃には、その神通力も喪いかけておりました。
権力と実力と自信が揃うと、人間、随分と様変わりしてしまうものですよね、おそらくいつの世も……。

やがて、後白河法皇とその周辺から、平家打倒の方法が模索され始めます。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

まずは治承元年(1177年)に「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれる事件がありました。

簡単にいうと、
「平家打倒の相談をしていたら、清盛側にリークされて関係者が全員処分された」
というものです。
清盛によるデッチ上げという説もありますが、何ともいえません。

次は、後白河法皇自身が強引な方法に出ました。

清盛の息子や娘が若くして亡くなったことにつけ込み、清盛への相談なしに彼らの荘園や領地を没収してしまったのです。

これはいくらなんでも法皇のほうが悪い話です。
当然ながら清盛は大激怒。
後白河法皇を幽閉して、権力を行使できないようにしました。

これが【治承三年の政変】です。

しかし、日頃から恨みを買っていた清盛が、治天の君(天皇・上皇・法皇の中で、実際に政治を行っている人)を幽閉したことは、さらに反・平家の機運を高めます。

治承四年(1180年)、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が挙兵。
彼自身は中央で兵を挙げたため、すぐに敗れてしまいましたが、時間差で各地の武士に「一緒に平家を倒そうぜ!」(超訳)という内容の令旨(命令書のこと)が送られました。

そしてその一つが、源行家(頼朝たちの叔父)によって伊豆にも届けられたのでした。

 

頼朝、ついに立ち上がる 目指したのは鎌倉だったが……

それまでの20年でスッカリ周辺の信用を得ていた頼朝。
伊豆や相模の武士をまとめて挙兵します。

まずは遠い先祖で河内源氏の二代目だった源頼義(よりよし)以来の縁(ゆかり)の地・鎌倉を目指します。

しかし、このときは脆くも失敗。
石橋山の戦いで平家方に敗れ、海路で安房まで逃げ延びました。
このとき頼朝一行はたった10人程度だったそうですから、ボロ負けっぷりがわかろうというものです。

逃げた頼朝たちを助けたのは、地元の平野仁右衛門という人でした。とある島の洞窟に彼らを匿い、頼朝はその恩を忘れず、後に仁右衛門へ島をまるごと与えております。
そのためこの島は「仁右衛門島」と呼ばれるようになり、現代もそのご子孫一家が暮らしています。

凄い歴史ですね。
なんだか現地を訪れたくなりました。
とりあえずグーグルマップを貼り付けておきますのでご興味のある方はどうぞ。

 

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北条氏や三浦氏、さらには上総氏や千葉氏の力を借り

緒戦に敗れた頼朝は、もちろんそれぐらいでは諦めません。

再び北条時政や三浦義澄らと合流し、兵力を補充するため、上総広常(ひろつね)や千葉常胤(つねたね)に協力を求めます。
いずれも桓武平氏の流れを汲む家系で、その名の通り千葉の有力な豪族でした。

千葉広常は平治の乱で義朝の長男・源義平に与していたにもかかわらず、戦後の追手をかいくぐって千葉まで戻ってきたという剛の者です。
これ、秀吉の「中国大返し」や家康の「伊賀越え」より地味にスゴイかもしれません。

一方、千葉常胤は、平治の乱には参加していなかったようです。
が、頼朝の親戚にあたる頼隆(※生後二ヶ月足らず)の見張り(という名のお守り)をしていた関係で、心情的には源氏寄りでした。

彼らの協力を得た頼朝は、西へ進んで葛西清重などの武蔵周辺の武士を組み入れ、とうとう鎌倉に入ります。
武士にとって「父祖の地」は家や血筋と同じくらい大切なものです。

頼朝軍の士気は最高潮に達したことでしょう。

ただ、この頃になると、頼朝の動きは京都にも知られていました。

諸々の理由で隠居したかったのにできなかった清盛は、直ちに息子・維盛を総大将とした討伐軍を派遣。
しかし平家軍は、治承四年(1180年)10月、戦わないで有名な富士川の戦いで「命からがら逃げ帰る」という大失態をしでかします。
アチャー(ノ∀`)どころの話ではありません。

頼朝はこれを知って直ちに西上を進めようとしました。
が、常胤たちに「まずは関東を押さえて、背後の憂いをなくしたほうがいいですよ」(意訳)と言われ、思い直します。

そして年明けまでの間に地固めとして、常陸の佐竹氏や上野の新田氏を服属させるなどし、関東をほとんど自分のシマにしてしまいました。

また、侍所(さむらいどころ)・問注所(もんちゅうじょ)などの機関を作り、家中の統制も図っています。

この辺が「頼朝は武士というより政治家だ」とされる理由でしょう。
平家との戦いでは戦場に行っていないから、というのもありますが。

ちなみに富士川の戦(わな)いの翌日、あの源義経が頼朝の元にやってきています。
彼の視点はまた後日扱いますね。

 

清盛が死んでいた もう戦う理由がない!?

年が明けて養和元年(1181年)、頼朝は再び平家との戦を始めます。
と、言うといかにも快進撃が行われたかのように思われるかもしれませんが、墨俣川の戦いでは源氏軍が敗れるなど、そう簡単でもありませんでした。

そういう事情もあってか、この年、頼朝から後白河法皇宛に
「朝廷に対して謀反を起こす気はないですし、平氏と和睦しても構いません」
なんて書状も送られています。

『えっ、ここまで大規模に兵を挙げたのに、自分から引き下がっちゃうの?』

そうツッコミたくなった方もおられるでしょうか。
実は、墨俣川の戦いからおよそ一ヶ月前のことです。

平清盛が病死していたのでした。

頼朝にとってこの戦いは、父の仇である清盛を討つことが最大の目的でした。
清盛がいなくなってしまえば、半分以上意味が薄れてしまいます。
むしろ、朝敵にされるおそれがありました。

ですので、もしも平家側に、頼朝とタメを張れるレベルの政治能力を持った人がいれば、その方向で動いたでしょう。

一方、平家から見た頼朝は
「せっかく命を助けて公平に裁いてやったのに、脱出して兵を挙げるとは不届き千万! 法の下に討ち果たさねば!」
となります。

清盛の後継者となった平宗盛が、清盛の遺言を盾に和睦を受け入れなかったのも、おそらくはこのような考えだったのでしょう。

最終的に平家が負けること、それまでの世間の評判がよくなかったことなどで、ついつい「平家が完全に悪者」と思ってしまいがちですが、当時の状況では頼朝のほうに非があるとみられてもおかしくはありません。

かくして平和的な解決は不可能となりました。

 

なぜ義仲と仲違いしてしまったのか

各地に散っていた頼朝以外の源氏武士も挙兵、徐々に京へ近づきます。

頼朝のイトコ・源義仲木曽義仲)などが有名ですね。
※義仲側のお話はまた後日

木曽義仲/wikipediaより引用

ここで、墨俣川の戦いで敗北した頼朝の叔父・行家を義仲がかばい、頼朝と義仲は一時険悪になります。

すわ源氏お得意の内輪揉めか!

と思われたものの、まずは平家を片付けることが優先され、このときは和議が成立。やればできるやん。
まぁ、河内源氏の場合、「やろうともしない」ケースのほうが多い気がしますが(´・ω・`)

ちなみに和議の条件は、
「義仲の嫡子・義高を、頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に送る」
というものでした。

事実上の人質ですけれども、義高と大姫は年が近く、この頃はまだ双方ともに年齢ひとケタの幼児でしたので、うまくいく可能性もあったでしょう。
頼朝としては、「既に乱暴者になってしまっている義仲を説得するより、幼い義高を従順に育てるほうがいい」と思えたのかもしれません。

しかし、義仲は京都に入るなり後白河法皇と対立し、源氏の立場を危うくしてしまいます。

「これはまずい」と考えた頼朝は、後白河法皇に接近して東国の支配権を認めてもらい、義仲の失脚を図りました。
当然、義仲からすれば頭にくる話です。
そこで義仲は後白河法皇を幽閉するという強行をしたために、かえって立場を悪くしてしまいます。

結果、頼朝の弟たち(義仲にとってもイトコ)である源範頼・源義経に討たれてしまいました。

おそらく頼朝としては、範頼・義経双方に「身内でも、下手を打てば容赦しないからな」という含みを持たせたつもりだったのかもしれません。

 

屋島の戦いから程なくして壇ノ浦の戦い

その間に、平家は都から落ち延び、清盛の隠居所だった福原などに逃げます。
当然、兵力は回復。
木曽義仲との内輪揉めがなければ、もっと早く源平の決着があったでしょうから、壇ノ浦ではなく福原近辺が平家最後の地になっていたかもしれません。

範頼・義経は、一ノ谷の戦いで平家に勝利し、さらに西へと彼らを追い詰めて参ります。

源義経/Wikipediaより引用

そのまま追撃するか?
と思いきや、京都の治安回復と兵糧や軍船の用意などのため、次の屋島の戦いまでは半年ほど間がいております。
この「戦と戦の間隔の長さ」が、源平の合戦「治承・寿永の乱」をわかりにくくしている気がします。

いざ体制が整うと、頼朝は改めて範頼を平氏追討の総大将とし、西へ向かわせます。

義経はこのころ勝手に検非違使・左衛門尉の任官を受け、頼朝の怒りを買っていました。
ただ、このときには処罰はされません。
「まずは平家を」ということで保留され、範頼と共に屋島の戦いに臨み、勝利を収めています。

そして、屋島の戦いから一ヶ月半程後に、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させたのでした。

頼朝は平家打倒を成し遂げた功績で、従二位という高い位を授かりました。
従三位以上は「公卿」と呼ばれ、特別にエライとみなされます。
家柄によっては清涼殿(天皇の日常生活の場)・殿上の間に上がることもできました。

元々朝廷にパイプがあった頼朝としては、これでようやく返り咲いたように思えたかもしれません。

 

義経にも後白河法皇にも容赦なく綱紀粛正を

最大の敵・平家を滅ぼした頼朝は、次は内部の綱紀粛正に取り組まねばなりませんでした。

そこでまず問題になるのが末弟・義経。
上記の通り、平家が片付く前から義経の行動には問題が多々ありましたから、あまり放置しておくと東国武士が分裂しかねません。

そこで始まるのが河内源氏お約束の内輪揉めパターンです
頼朝が義経に刺客を送り、義経が行家と組んで後白河法皇から「頼朝追討の院宣」をもぎとり、いよいよ大合戦か!というところで、義経の下には兵が集まらず、都を出ていかざるを得なくなります。

頼朝は後白河法皇にも容赦はありませんでした。
「兄弟の離間ついでに、法皇が独裁を企んでいる」と考え、舅である北条時政に大軍を率いて京へ向かうよう命じるのです。
一言で言えば脅しですね。

後白河法皇は保元の乱以降ずっと戦乱を見てきていますし、自分も義仲に襲われたことがありますから、武士の恐ろしさは身にしみてわかっています。
実際、アッサリと屈し、頼朝追討の院宣を撤回して、逆に義経追討の院宣を頼朝に出します。
もうワケワカメ。

しかし、頼朝はそんなことではごまかされません。
あくまで後白河法皇の責任を追及し、政治的ないくつかの要求をしました。

その中には
・義経と親しい院の近臣を排除すること
・頼朝に近い公卿によって合議制を作ること
・有職故実に詳しく保守的な九条兼実を内覧(天皇に出される書類を予めチェックする役職)にすること
などが含まれていました。

要約すると「アンタと義経に手は組ませないし、独裁なんてもっての他だからな^^」と脅したことになりますね。

 

奥州藤原氏は義経を切り捨て、自分たちも滅ぼされ

頼朝は、義経追討と各地の武士の反乱防止を兼ねて、全国へ守護地頭を設置する許可も求めました。

これを鎌倉幕府の成立と同義に捉える向きもありますが、そうすると他の幕府成立との整合性が微妙になってきます。

室町幕府成立は支配権が確定した足利義満あたりの時期になってしまいますし、江戸幕府に至っては、秀吉が亡くなってしばらくして家康が実質的な支配者になったあたりで成立したとも考えられてしまいます。

まぁ、土地の制度がかなり変わってはおりますが、だからこそ守護地頭の設置を幕府成立の尺度にするのは難しいともいえますね。

ですのでやはり、従来の「幕府の成立は、征夷大将軍が任じられた時点」とするのが良さそうです。もはやテストには出ないでしょうけど。

この間、義経は古巣である奥州藤原氏の元に逃げ延びていました。
頼朝はもちろん圧力をかけ、義経を差し出すように迫ります。

奥州藤原氏の内部でも意見が割れながら、最終的に当主である藤原泰衡は義経を切り捨てるのです。

泰衡にとっては保身のためにしたことでした。
が、頼朝は最初から奥州藤原氏を残すつもりはなかったでしょう。

えさし藤原の郷で再現された金色堂

雪の難があるとはいえ、京都や西国に比べれば、奥州は鎌倉と近いところです。
新しい政権を作ろうとしているのに、近所に既存の大勢力があってはたまりません。

そこで頼朝は「俺は弟を差し出せとは言ったけど、殺せとは言ってない! これじゃウチで裁けないだろ!」ということにし、奥州藤原氏を滅ぼします。

かくして頼朝の支配地域は拡大するのです。

 

悲しすぎる弟・範頼の終わり方

頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしてから、後白河法皇の求めに応じて上洛し、対面しています。
そして権大納言・右近衛大将の官職を得ました。

ここではまだ、征夷大将軍になっていないところがミソです。
その不満からか、権大納言・右近衛大将の職は早々に辞してしまっています。

この頃の頼朝は、後白河法皇の孫である後鳥羽天皇との関係を重視し始めたようで、長女・大姫の入内を考え、渡りをつけ始めました。
そして建久三年(1192年)3月に後白河法皇が薨去すると、同年7月、後鳥羽天皇によって頼朝に征夷大将軍の官職が与えられました。

元々、征夷大将軍は書いて字のごとく、「夷(えびす)=朝廷の支配に従わない者を討つ」役目です。
頼朝は既に奥州藤原氏を滅ぼしていましたから、実質的な仕事はない名誉職といっても過言ではありません。

朝廷としては「東国のことはお前に任せるからよろしく^^ 父祖の地もそっちだし別にいいだろ?」という感じだったんですかね。

その後は御家人らの反抗はほぼありませんでしたが、建久四年(1193年)5月に富士山で巻狩(四方から獣を追い込む狩りの方法)を行った際、思わぬトラブルが起こります。

御家人の一人・工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちにより殺され、これがなぜか「頼朝が討たれた」という誤報となり、鎌倉に伝わってしまったのです。

当然、妻である政子は動揺します。
それに対し、留守を預かっていた源範頼が一言。

「私がおりますので、源氏は安泰ですよ」

これはもちろん意訳ですが、政子にとっては悪い方の意味で強く感じられたようです。

『コイツ、兄である頼朝殿を殺して自分が征夷大将軍になろうとしているのでは?』

無事に帰ってきた頼朝に対し、政子はこのことを伝えました。
頼朝も、政子と同じように感じたようです。

かくして、これまで頼朝に忠実だった範頼に謀反の疑いがかけられ、伊豆へ流された後、不審死を遂げることになります。
ここで範頼と腹を割って話し、改めて忠誠を誓わせて息子たちの後ろ盾になれと命じていれば、頼朝の血筋はもう少し続いていたかもしれません。

源範頼/wikipediaより引用

 

怪しすぎるその最期 吾妻鏡でも触れられず

この件をはじめとして、晩年の頼朝には「ゑっ?」という点が目立つようになります。

源平の合戦や義仲・義経の始末、奥州合戦で心身の力を使い果たしてしまったかのように、彼の判断内容やそのタイミングにハテナが浮かぶのです。

例えば、娘・大姫が義高を慕い続け、以前から他の結婚を進めても「私は結婚なんてしたくありません!」と言い続けているのに入内工作を進め、それが成功する前に大姫自身が亡くなってしまいます。

また、これまで朝廷での後ろ盾になっていた九条兼実が失脚し、頼朝の朝廷に対する影響力が薄れてしまっています。
別の人にも渡りをつけていればよかった話なのですが、それも見受けられません(失敗しただけかもしれませんが)。

さすがに御家人統率についてのポカはないものの、これまでの頼朝に政治的な失敗がほとんどないだけに、晩年についてはなんだかおかしいのです。

次女・三万の入内を計画し、女御宣下まではいったものの、実現する前に頼朝自身が亡くなってしまいました。

享年53。

その死因は現代に至るまで不明で、諸説入り乱れています。

武家に関する日本史上の謎としては、本能寺の変と同じくらい不明瞭なところが多いその死。
鎌倉時代の代表的資料『吾妻鏡』ですら、頼朝の死どころか葬儀のことさえ書いておりません。なんだかアヤシイかほりがプンプンしますよね。

そんなわけでどうにもオチが締まらないのですが、頼朝の視点を知った上で、義仲や義経のことも見ていくと、また違った印象を持つのではないかと思います。

これまた歴史の醍醐味でしょう。

源義経31年の儚き生涯をスッキリ解説!なぜ牛若丸は奥州の地に散った?

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参考:国史大辞典「源頼朝」 源頼朝/wikipedia

 




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