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鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

山城の国一揆とは?「三十六人衆」を中心に「惣国」を組織した国人たちの事情

更新日:

将軍・足利義教をぶっ殺したり(嘉吉の乱)。
京都の火の海にしたり(応仁の乱)。
はたまた将軍・足利義稙を京都から追い出したり(明応の政変)。

受験生にとっては「いい加減にせい!(´・ω・`)」とツッコミたくなる室町時代ですが、当然ながらリアルタイムで居合わせた人たちも、お偉いさんたちのバカさ加減に嫌気が差していました。

その発現といえるのが、数多の一揆です。
特に、文明十七年(1485年)に起きた【山城の国一揆】は、一揆側に道理があったとしか思えない大きな騒動となりました。

実は以前から、山城の土一揆(1477年)、徳政一揆(1480年)など、小さな規模のものは起きていたのですが、話題に上るのはほとんど【国一揆】のほうですよね。

「一揆」という言葉は、なんとな~く
【民衆がお殿様に対して暴動を起こした】
ようなイメージが多いかもしれませんが、山城の国一揆については少々事情が異なりました。

早速、見て参りましょう!

 

畠山のゴタゴタ いつまでやっとんねん!

舞台は京都南部の南山城(みなみやましろ・城ではなく地方です)
朝廷や幕府からほど近いこの地に、はた迷惑な客が長居していました。

その名は畠山氏。

本来ならば室町幕府における「三管領」の一角であり、一揆を取り締まる側だったはずの人たちです。

彼らは【応仁の乱】と【文明の乱】の主要な原因の一つともなった
【畠山政長vs畠山義就の家督争い】
を未だに続けており、この年の10月から宇治川を挟んでにらみ合いを始めました。

これがなんと60日間も続いています。

戦は、ただでさえ地元民にとって大迷惑なことですが、このときはあまりにも長過ぎる対陣に国人たちがキレました。

国人とは、幕府や朝廷から任じられた領主ではなく、元からその土地に住んでいて力を持った人たちのことです。
現代風にいうなら「地元の名士」というやつです。

国人から出世した有名な例としては、毛利元就などがいますね。
あるいは大河ドラマになった井伊直虎とか。両者ともにこの時点ではまだ生まれていませんが。

毛利元就はナゼ一代で中国地方8カ国を支配できたのか 人生75年の出世ストーリー!

 

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幕府はアテにならず 自分たちで守るしかない

現代の選挙でも地域コミュが大切なように、当時の守護大名は国人たちとうまくやっていくことが重要でした。

逆にいうと、
「国人と仲良くできない守護は、いずれ反感を買って閉め出され」
てしまいます。

特に【応仁の乱】が起きた後ぐらいからは、国人たちもこう考えるようになりました。

『もう中央から来るお偉いさんはアテにならないし、かえって生活を苦しめられる。なら、俺達が団結して土地と家族を守ったほうが良い』

正論すぎてぐうの音も出ませんね。

山城の国一揆の場合は、上は60歳、下は15~16歳の国人たちが文明十七年の年末に集まって宇治・平等院で会議を開き、
「畠山氏の軍をまとめて追い出そう!」
「「「賛成!!」」」
という採決となりました。

そして両畠山軍にその旨が通達されたのです。

 

引くに引けない畠山 ならば追い出せ

内容は記録によって多少バラつきがあります。

ザックリ言うと
「畠山氏はもうウチらのことに手も口も出すな! こっちくんな!
ここらはこれから、俺たち自身で治めていくんだからな!!」
という感じですね。

一体どんだけ嫌われてるんだ……と呆れるのもムリはなく、この時点で畠山氏は20年ぐらいゴタゴタしてました。こりゃムカつきますわな。

もしも幕府が力を保っていれば、国人たちも訴えるなどして正当な手段に出たかもしれません。

ところが国人から通達がくだされた畠山では、義就軍も政長軍も退けなくなっておりました。

なんせ撤退戦は基本的に難しいものです。
先に動いてしまえば、背後を突かれてボロ負けする可能性があります。

なので仕方ないといえば仕方ないのですが……国人衆にとっては、イライラが極まる状態でしかありません。

国人側は交渉と多少の実力行使を重ねます。
そして何とか、宇治から義就軍と政長軍の両方を追い出すことに成功したのでした。

 

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「三十六人衆」を中心に「惣国」を組織

年が明けて文明十八年(1486年)、国人たちは自治のために動き始めました。

当然でしょう。
管領家の一つ(畠山)が自分たちの地元で仲間割れするわ、幕府はアテにならないわ。
ボケっとしてると、また他所から戦を持ち込まれかねない状況です。自分たちで何とかしようと思うのも当然のことでしょう。

残念ながら、国人たちがどのような掟を定めたのかは記録に残っていません。

しかしこのときから南山城の支配は「三十六人衆」と言われる国衆を中心に行われるようになりました。
この組織を「惣国」と呼び、【検断(けんだん・警察や裁判など)】を中心に地域支配などを担うのです。

惣国における重要事項は集会で決めることになっていました。

が、日常的な政務については、月行事(がちぎょうじ・月替りで交代するお偉いさん)が行っていたようです。
身近なものに例えるとすれば、学級委員を一ヶ月ごとの持ち回りでやっていたみたいな感じですかね。

しかし、自治のための費用がどこから出てきていたのかはよくわかっていません。
八年間も自治をしていたのですから、それなりに安定した収入があったはずなのですが……。

由緒正しい家の武士ですら記録をきちんとつけないのが珍しくない時代なので、国人たちに「記録する」という意識が薄かったのでしょうか。

 

 

さて、ここで幕府からの視点に移りましょう。

前述の通り、山城の国一揆は宇治周辺で起きたものです。

室町幕府からすると目と鼻の先で、
「幕府がなくてもやっていける」
ことを証明した勢力ができてしまったわけですから、鬱陶しいことこの上ありません。そもそも幕府のお偉いさんのせいでこうなったんですけどね。

国人衆としても、既に幕府に対して信頼ゼロですから、何か言われても抵抗します。

実際、幕府が新たに伊勢貞陸(いせ さだみち)を山城国の守護職に任じたものの、彼は現地に入れずじまい。
しばらく経った明応二年(1493年)3月、足利義稙の河内出陣準備中にも、再び伊勢貞陸が守護に任じられましたが、やはり国人衆の自治地域には入れませんでした。

足利義稙木像/wikipediaより引用

ところが同年8月、事態はにわかに動き始めます。

幕府が山城八郡の武士に「守護・伊勢貞陸の下知に応ずること」を命じると、これを受けて山城の国人は伊勢氏の守護支配を受け入れたのです。
国人衆も一枚岩ではないので、その後も反対する動きは多少ありましたが、大勢にはなっていません。

大きな衝突にならなかったのは、【明応の政変】で相対的に伊勢貞陸の力が増して反抗しにくかったことや、足利義稙や畠山政長を攻めた兵力がそのまま南山城に来る可能性があったことが影響したと思われます。

また、貞陸も細川政元も南山城の国人衆を味方に引き入れようとしていたので、これによって国人衆の結束が乱れてしまい、自治が不可能なレベルになってしまった……ともとれます。

要は、いよいよヤベェ相手がきて、国人も身内で揉め始め、反抗するにも限度がある――と判断したのですね。他に選択の余地はなさそうです。

 

最後に流れをマトメておこう!

山城の国一揆をものすごくザックリまとめてみましょう。

◆畠山氏の内紛で南山城の人々が迷惑する

◆南山城の国人衆が畠山氏を追い出す

◆国人衆による自治が始まる

◆室町幕府「今度はマトモな人を守護として送るからいい加減言うこと聞け」と切り崩し工作

◆国人衆「まっ、いいか」

◆自治終了

みたいな感じですかね。

本当はもっとゴタゴタしていて、この後も一波乱あるのですが、仮に受験で問われるとしてもここまでで十分ではないでしょうか。
とにかく流れをバッチリ理解でき……ていれば嬉しいのですが。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「山城国一揆」
山城の国一揆/wikipedia

 




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